曹休
- 曹休、字は文烈。太祖の族子。天下大乱の際、十余歳で父を喪い母を連れて江東へ渡ったが、呉郡太守を務めた祖父の縁を頼らず姓名を変えて荊州経由で太祖のもとへ帰参した。太祖は「これぞわが家の千里の駒だ」と評し文帝と同居させ実子同様に扱った。曹洪に従い呉蘭・張飛と戦った下辯の役では、諸将の躊躇を見抜き即座の攻撃を進言し勝利に導いた。
- 太祖の漢中撤退に従い中領軍を拝命、文帝即位後は領軍将軍・東陽亭侯となり、夏侯惇の死後は鎮南将軍として都督諸軍事を任され、孫権配下の撃破や芜湖の焼き討ちなどの功で征東将軍・揚州刺史・安陽郷侯となった。母の喪に服す際の孝行ぶりは文帝が厚く配慮するほどであった。
- 文帝の孫権征討では征東大将軍・仮黄鉞として張遼らを督し呂範らを洞浦で破り揚州牧を拝命。明帝即位後は長平侯に進み、審徳・韓綜・翟丹らを降し大司馬・都督揚州に至った。太和二年の二道からの呉征討では尋陽方面を担当したが、偽降に乗じて深入りし石亭で敗退、軍の混乱で輜重を多く失った。上書して謝罪したが、この敗戦への痛憤から癰を発病し薨じた。諡は壮侯。子の肇が嗣いだ。
- 肇は当代随一の才幹があり散騎常侍・屯騎校尉を務め燕王宇らと明帝の後事を託されかけたが、事態の急変で侯として第に帰され正始中に薨じ衛将軍を追贈された。子の興が嗣ぎ、肇の弟纂も列侯に封ぜられた。肇の孫曹摅は学才があり晋に仕え洛陽令として名声を得たが、天下大乱の中で呉討伐に赴き戦死した。