三國志卷九 諸夏侯曹傳第九 曹仁
曹仁(字は子孝、曹操の従弟)は若くして群を率い曹操に従った猛将。徐州・河北平定、張繍討伐、江陵で周瑜の大軍を防ぎきるなど各地で武功を挙げ、魏建国後は大司馬にまで至った。弟の曹純も虎豹騎を率いて活躍した。
河北平定までの武功
- 曹仁、字は子孝。太祖の従弟。若くして弓馬・弋猟を好み、乱世に千余人の徒党を得て淮泗を転戦し、太祖に従い別部司馬・厲鋒校尉となった。袁術討伐・徐州征討で騎兵を率い前鋒として功をあげ、呂布討伐にも従軍し句陽で布の将劉何を生け捕った。天子を許に迎えた後は広陽太守を拝したが太祖はその勇略を惜しんで郡に赴かせず議郎督騎とした。張繍討伐では別動隊を率い、太祖軍が繍に追撃され士気が衰えた際、自ら奮って将士を率い立て直し撃退に貢献した。
- 官渡での対峙中、袁紹配下の劉備が汝南方面で反乱を誘発した際、仁は「劉備は袁紹の兵をまだ掌握できていない、撃てば破れる」と進言し実際に劉備を撃破、離反した諸県を回復した。紹の別将韓荀の糧道遮断も鶏洛山で撃破し、以後紹は分兵を控えるようになった。史渙らと紹の輸送車を焼く作戦にも加わった。
- 河北平定後、壷関攻囲では太祖の「陥落すれば皆生き埋めにせよ」との令に対し、囲城には必ず活路を示すべきだと諫めて撤回させ、城は降伏した。功により都亭侯に封ぜられた。
江陵の防衛
- 荊州平定に従い征南将軍として江陵に留まり呉将周瑜を拒んだ。瑜の数万の大軍の前鋒に対し、募った三百人と部将牛金を出撃させたが囲まれ危機に陥ったとき、仁は自ら甲冑を着けて数十騎で城を出て敵陣に突入、牛金の兵を救出した。城上にいた長史陳矯らはその勇に驚嘆し「将軍は真に天人だ」と嘆じ、三軍がその勇に服した。功により安平亭侯に転封された。
魏建国後の軍歴
- 馬超討伐では安西将軍として潼関を守り渭南で超を破った。蘇伯・田銀の反乱では驍騎将軍として七軍を都督し鎮圧。征南将軍・仮節として樊に屯し荊州を鎮め、宛で叛いた侯音を討った。
- 関羽の樊城攻めでは漢水の氾濫で于禁の七軍が水没し禁は降伏したが、仁は数千の兵で城を守り抜き、糧食が尽きかけても将士を励まし決死の覚悟を示した。徐晃の救援と水位低下により囲みを脱し、関羽は退いた。
- 曹丕の東宮時代には「将たる者は法を奉ずべきこと征南将軍のようであれ」と評された。魏王即位後は車騎将軍・都督荊揚益州諸軍事となり陳侯に進み二千戸を加え三千五百戸に、父曹熾も陳穆侯に追諡された。のち大司馬に遷り、黄初四年に薨じた(享年五十六)。諡は忠侯。『傅子』は「曹大司馬の勇は賁育にも劣らず、張遼がこれに次ぐ」と評している。子の泰が嗣ぎ鎮東将軍・甯陵侯となった。
弟曹純
- 曹純は仁の弟。十四歳で父を喪い兄仁と別居して家業を継ぎ、僮僕人客百余人を統率し郷里に評判が高かった。学問を好み士人を厚遇し、太祖に従い虎豹騎を督した。袁譚討伐では士気の低下を懸念する太祖に「深入りした軍は退けば威を失う、敵の驕りに乗じ急撃すべし」と進言し勝利、麾下の騎兵が譚を斬った。烏丸征討では単于蹹頓を捕らえる功をあげ高陵亭侯に封ぜられた。荊州征討では長坂で劉備を追い二女と輜重を得た。建安十五年薨じ、文帝即位後に威侯と追諡された。虎豹騎の統率者として人望が篤く、太祖は死後に代えを立てず「純に代わる者はもう得られまい」と惜しんだという。子の演が嗣ぎ領軍将軍・平楽郷侯となり、演の子亮が嗣いだ。