三國志卷八 二公孫陶四張傳第八 陶謙
陶謙(字は恭祖、丹楊の人、?–興平元年、享年六十三)は学を好み官途につき徐州刺史として黄巾を破り、後に徐州牧となった。政は情に任せて乱れ、曹操の父の死をめぐって曹操の攻撃を受けて大敗し、間もなく病没した。
出自と初期の官歴
- 陶謙、字は恭祖。丹楊の人。若くして学を好み諸生となり、茂才に挙げられて盧県令となった。官にあっては清廉であったが、霊星を祀った際の余り銭五百を私すことになるのを恥じ、官を捨てて去った。幽州刺史に遷り、議郎に徴されて車騎将軍張温の軍事に参じ、西のかた韓遂を討った。徐州で黄巾が起こると徐州刺史に任じられ、これを撃破した。
徐州牧としての治世
- 董卓の乱に際し州郡が挙兵する中、天子が長安に都したため四方の道は絶えたが、謙は使者を間道から遣って貢献を続け、安東将軍・徐州牧に遷り溧陽侯に封ぜられた。当時徐州は豊かで流民の多くが帰属したが、謙は情に任せて政を行い混乱を招いた。広陵太守の趙昱は徐方の名士として忠直のゆえに疎まれた人物であった。謙は讒佞の徒である曹宏らを重用したため刑政の均衡を失い、多くの善良な者が害を受け、次第に州は乱れた。下邳の闕宣が自ら天子を称えると、謙は初めこれと結んで略奪したが、後に宣を殺してその衆を併せた。
曹操との抗争と死
- 初平四年(193年)、太祖が謙を征討し十余城を抜き、彭城で大戦して謙軍は死者万余、泗水の流れが止まるほどの惨敗を喫した。謙は郯に退いて守り、太祖は糧が尽きて軍を還した。曹操の父・曹嵩が泰山で殺害されたことをめぐる経緯があったとされる。裴松之は、この時天子はまだ長安にあり曹操は未だ政を秉っていなかったため、罷兵の詔が曹氏から出たとするのは誤りであろうと付言している。
- 興平元年(194年)、太祖は再び東征し琅邪・東海の諸県を平定した。謙は恐れて丹楊への逃亡を考えたが、折しも張邈が呂布を迎えて叛いたため太祖は軍を返して布を討った。この年、謙は病死した。享年六十三。張昭らは哀辞を作り、その治政と武功、幽州・徐州での治績、封侯・拝将の経歴を称え、その早すぎる死と五郡の潰乱を悼んだ。謙には商・応の二子があったが、いずれも仕えなかった。