三國志卷六 董二袁劉傳第六 董卓

隴西臨洮の人、字は仲穎(?–192年)。羌胡討伐で武名を挙げ、霊帝末に上洛して宮中を制圧し、少帝を廃して献帝を立て相国として専横を極めた。洛陽を焼いて長安へ遷都させるなど暴虐を尽くし、後漢末の群雄割拠を招いた張本人。王允・呂布の謀により誅殺された。

年表(5件)
  • 中平五年霊帝の召還命令に背き并州牧のまま兵権を保持する
  • 初平元年二月天子を長安に遷都させ、洛陽の宮室を焼く
  • 初平三年四月王允・呂布の共謀により誅殺され三族を夷される
  • 建安元年(李傕・郭汜の混乱を経て)楊奉・韓暹・董承らが天子を洛陽に還す
  • 建安二年裴茂により李傕が誅殺され三族を夷される

出自と経歴

  • 董卓、字は仲穎、隴西臨洮の人。父の董君雅は微官から潁川綸氏尉となった。三子あり、長子董擢(字孟高、早世)、次子が卓、末弟が董旻(字叔穎)である。
  • 若くして侠を好み、羌族の地を遊歴して諸豪帥と交わりを結んだ。のち帰郷して耕作する身となったが、訪ねてきた豪帥のために耕牛を殺して饗応し、その意気に感じた豪帥たちが雑畜千余頭を贈った。
  • 郡吏として盗賊を監督し、羌胡の略奪を大破して千を数える斬獲を挙げた。并州刺史段熲の推薦で司徒袁隗の掾となり、桓帝末に六郡の良家の子として羽林郎に選ばれた。才武に優れ両方に弓筒を帯びて馳射した。軍司馬として中郎将張奐に従い并州で功をあげ郎中を拝し、賜った縑九千匹をすべて吏士に分け与えた。廣武令・蜀郡北部都尉・西域戊己校尉を歴任するも免官、のち并州刺史・河東太守に起用され、羌胡と百余戦を交えた。
  • 中郎将として黄巾を討ったが敗れて罪に問われ、韓遂らの涼州反乱に対し再び中郎将として西征、望垣硖で羌胡数万に包囲され糧食が尽きたが、偽って捕魚のため川を堰き止め、堰の下を密かに軍を通してから堰を決壊させて脱出した。六軍のうち五軍が敗れる中、卓のみ全軍を保って帰還し、前将軍・斄郷侯に任ぜられ、并州牧に召された。
  • 霊帝紀によれば中平五年、少府に召され軍を皇甫嵩に付けるよう命じられたが、吏士が離れがたいことを理由に赴任を遅らせ、翌六年も并州牧のまま吏兵の引き渡しを拒み、詔命に再三背いたところで何進に召された。

何進誅宦官と入京

  • 霊帝崩御、少帝即位。大将軍何進は司隷校尉袁紹と謀り宦官誅殺を図ったが何太后が従わず、進は卓を召して太后を脅そうとしたが、卓が至る前に進は殺された。
  • 中常侍段珪らが少帝と陳留王を連れて小平津に逃れると、卓は軍を率いて北芒で帝を迎え宮に還った。童謡に「侯にあらず、王にあらず、千乗万騎、北芒に走る」とあったという。卓は帝と語るも要領を得ず、陳留王に禍乱の起こりを問うと終始遺漏なく答えたため大いに喜び、廃立の意を抱いた。
  • 何進の弟・車騎将軍何苗は進の部曲に殺された。進の部曲将呉匡は苗が宦官と通じたと疑い、卓の弟旻と共に苗を朱雀闕下で攻め殺した。進・苗の部曲は行き場を失いすべて卓に帰した。卓はまた呂布に執金吾丁原を殺させその兵を併せ、京都の兵権は卓に帰した。

廃立と専横

  • 少帝を廃して弘農王とし、ほどなく王と何太后を殺し、霊帝の少子・陳留王を立てた。これが献帝である。廃立に際し尚書盧植が太甲・昌邑王の故事は今に当たらないと諫めて卓の怒りを買い誅されかけたが、侍中蔡邕の取りなしで免れた。
  • 卓は相国に遷り郿侯に封ぜられ、賛拝に名を称さず剣履のまま殿に上ることを許され、母を池陽君に封じた。性は残忍不仁で厳刑をもって衆を脅し、些細な怨みも必ず報いた。侍御史擾龍宗を一撃のもとに撲殺し、何苗の棺を暴いて屍を切り刻んで道端に棄て、その母舞陽君も殺して苑中に棄てた。陽城で社日の民をことごとく殺し、女と財を車に載せ首を車軸に懸けて「賊を討って大勝した」と称し洛陽の城門で首を焼き、婦女を兵士に与え、宮人・公主にまで淫乱を働いたという。

遷都と暴虐

  • 卓は尚書周毖・城門校尉伍瓊らを信任しその推挙で韓馥・劉岱・孔伷・張咨・張邈を州郡の長官に任じたが、彼らが討卓の兵を挙げると、毖・瓊が己を裏切ったとして共に斬った。
  • 河内太守王匡が泰山の兵を河陽津に屯して卓を図ろうとしたが、卓は疑兵を出しつつ精鋭を密かに小平から渡河させて背後を衝き大破した。山東の群雄蜂起に恐れをなした卓は初平元年二月、天子を長安に遷都させ、洛陽の宮室を焼き陵墓を暴いて宝物を奪った。司徒楊彪が遷都に反対して免官され、太尉黄琬・司空荀爽も同様に諫めて免官された。
  • 洛陽城外百里を焼き払い、南北宮・宗廟・府庫・民家も焼き尽くし、富室を罪に問うて財産を没収、無辜の死者は数え切れなかった。山東の捕虜を豚脂を塗った布で巻いて足から焼き殺し、袁紹配下の李延を煮殺し、寵愛した胡人が司隷校尉趙謙に討たれると激怒し「私は飼い犬すら他人に叱らせたくないのに、まして人においてをや」と言って司隷都官に命じ趙謙を撾殺させた。
  • 尚父の号を称そうとしたが蔡邕の諫めで機を待つこととし、地震の際も蔡邕の「大臣が制度を踰えた兆し」との答えを容れて青蓋の車を金華皂蓋車に改めた。弟旻は左将軍・鄠侯、兄子璜は侍中中軍校尉として兵を典り、宗族が朝廷に列した。侍妾の幼児まで侯に封じ、孫女白を渭陽君に封じて壇を築き公卿に等しい儀を執らせた。公卿は車下で拝謁したが卓は礼を返さなかった。
  • 皇甫嵩とはかつて確執があったが、嵩が車下で拝礼した際「義真(皇甫嵩の字)は服したか」と戯れ、和解したという逸話が伝わる。
  • 郿に塢を築き、高さは長安城に匹敵し三十年分の食糧を蓄えた。宴席で投降した北地の反乱者数百人の舌を切り手足を断ち目をえぐり釜茹でにする酷刑を見せつけながら平然と飲食したという。天変を口実に、かねて不仲だった故太尉張温を袁術と通じたと誣告して笞殺した。

誅殺

  • 初平三年四月、司徒王允・尚書僕射士孫瑞・卓の部将呂布が共謀して卓を誅すことを図った。天子の病が癒えて未央殿で大会が催された際、布配下の李肅らが衛士を装って掖門を守り、布が詔ありと称して卓を刺殺し三族を夷した。主簿田景が卓の屍に駆け寄ろうとして共に殺され、当時「千里草、何ぞ青青たる、十日卜、なお生ぜず」との童謡が「董卓」の文字を暗示していたと伝わる。
  • 弟旻・兄子璜ら郿にいた宗族は部下に殺され、九十歳の母は命乞いも空しく斬られた。袁氏の門生故吏は郿で死んだ袁氏一族の屍を改葬し、董氏の屍をその傍らに集めて焼いた。卓の屍は市に晒され、肥満のため流れ出た脂で草が赤く染まり、守衛の吏がへそに灯芯を立てて日を継いで燃やしたという。のち旧部曲がその灰を集めて一棺に納め郿に葬った。塢中には金二三万斤、銀八九万斤のほか珠玉錦綺が山積し、長安の士庶は相慶した。卓に阿附した者はみな獄に下って死んだ。
  • 蔡邕は王允の座で卓の死を聞き嘆息の声を漏らしたため、允に国賊に与する者として廷尉に送られ、公卿の助命嘆願にもかかわらず殺された。裴松之はこの逸話を、允が佞臣に幼主の側で筆を執らせることを恐れた判断であり司馬遷の故事とは事情が異なると論じ、蔡邕が卓の死を悼んだとする謝承の記述自体を妄記の疑いがあるとしている。

李傕・郭汜――董卓死後の混乱

  • 卓の婿である中郎将牛輔は別に陝に駐屯し、校尉李傕・郭汜・張済を分遣して陳留・潁川の諸県を略していた。卓死後、呂布は李肅を陝に遣り牛輔を誅そうとしたが、輔らが迎撃して肅は弘農に敗走し、布は肅を誅した。
  • 輔は疑心暗鬼になり、営兵の夜間逃亡を全軍離反と誤認して金宝のみを持ち胡赤児ら五六人と共に城を越え黄河を渡ったが、赤児らに財目当てに殺され首を長安に送られた。

李傕・郭汜――長安占拠と天子擁立

  • 李傕らが陝に戻ったときには輔はすでに敗死し、赦免の詔もなく涼州人皆殺しの噂に恐れて賈詡の策により西進、道々兵を集めて長安に至る頃には十余万に達し、卓の旧部曲樊稠・李蒙・王方らと合流して長安城を十日で陥落させ、呂布を破って城中の老若を殺し尽くした。誅卓の首謀者王允は市に晒された。
  • 王允、字は子師、太原祁の人。呂布の逃亡の勧めを拒み朝廷を守って死ぬことを選び、妻子宗族十余人と共に誅された。
  • 卓を葬った郿の墓は大風暴雨で水が流れ込み棺槨を漂わせたという。李傕は車騎将軍・池陽侯・領司隷校尉・仮節、郭汜は後将軍・美陽侯、樊稠は右将軍・万年侯となり三人が朝政を専らにした。張済は驃騎将軍・平陽侯として弘農に屯した。
  • 同年、韓遂・馬騰が長安に降り、遂は鎮西将軍として涼州へ、騰は征西将軍として郿に屯した。侍中馬宇・種邵・劉範らが騰に長安襲撃を謀らせ李傕らを誅そうとしたが露見して敗死、樊稠が騰を撃って涼州に敗走させた。三輔の民数十万戸は李傕らの略奪により二年間で相食むほどに困窮した。

李傕・郭汜――内紛と天子の逃避

  • 諸将が権を争い、李傕は樊稠を殺してその兵を併せた(韓遂と樊稠が私的に密談したことを李傕の甥利が誣告し疑心を招いたことが発端)。郭汜と李傕も互いに疑い長安城中で戦った(郭汜の妻が李傕との仲を疑い毒を盛られたと偽って離間させたという逸話が伝わる)。李傕は天子を営に人質として宮殿・城門を焼き払い乗輿の物を悉く奪った。
  • 天子は李傕の北塢に移され外界と隔絶し、腐った牛骨を与えられるなど困窮したが、侍中楊琦の諫めで怒りを抑えた。司徒趙温は李傕に和解を促す書を送ったが激怒され、従弟李応の諫めで害されずに済んだ。天子は謁者僕射皇甫酈を遣り李傕・郭汜の和解を図らせたが、郭汜は詔に従う意を示したものの李傕は呂布討伐の功を誇り拒絶した。
  • 李傕配下の楊奉が軍吏宋果と李傕暗殺を謀るも露見し兵を率いて離反、李傕の勢力は衰えた。張済の仲介で天子は脱出し新豊・霸陵間に至った。郭汜は再び天子を郿に脅そうとしたが、天子は楊奉の営に逃れ、奉は汜を撃破した。李傕・郭汜は改めて結び、弘農の曹陽で天子を追い、楊奉が韓暹・胡才・李楽らと合流して防戦したが敗れ、李傕らは公卿百官を殺し宮人を奪って弘農に入った。尚書令士孫瑞もこの乱兵に殺された。
  • 天子は黄河を北へ渡る際に輜重を失い、伏徳の絹を継いで作った輦で岸を降り、行軍校尉尚弘が帝を背負って船に乗せるなど混乱の中、渡れなかった者の多くが指を斬られてまで船に縋ったという。楊奉・韓暹らは天子を安邑に都させ牛車に乗せて奉じた。飢饉のため従官は棗や野菜を食べる有様で、宮室は棘の垣で囲まれ門戸すら整わなかった。
  • 建安元年、楊奉・韓暹・董承らは箕関を出て軹道を下り、張楊の食糧供与を受けつつ天子を洛陽に還した。洛陽の宮室は焼け尽き街路は荒廃し、百官は丘や垣の間に身を寄せ、州郡から至る者もなく、尚書郎以下が自ら薪を拾い餓死する者も出た。

馬騰・韓遂――涼州軍閥のその後

  • 太祖が天子を許に迎えると、韓暹・楊奉は徐・揚間で寇をなし劉備に殺された(暹は張宣に邀撃され殺された)。董承は太祖に従うこと一年余りで誅された。建安二年、裴茂が関西諸将を率いて李傕を誅し三族を夷した(首は長安に高く懸けられた)。郭汜はその将五習に襲われ郿で死んだ。張済は南陽で穣の民に殺され、甥の張繍がその衆を継いだ。李楽・胡才は河東に留まり、才は怨家に殺され楽は病死した。韓遂・馬騰は涼州へ帰り互いに寇し合ったが、後に騰は衞尉として朝廷に入り子馬超がその部曲を領した。建安十六年、馬超は関中の諸将・韓遂と共に反したが太祖に撃破され(詳細は武帝紀)、遂は金城でその将に殺され、超は漢陽に拠ったが馬騰は三族を夷された。趙衢らが義兵を挙げて超を討ち、超は漢中の張魯を経て劉備に奔り蜀で死んだ。