三國志卷五 后妃傳第五 明元郭皇后

出自と入宮

  • 明元郭皇后は西平の人、代々河右の大族であった。黄初年間、郡の反乱により宮中に没入された。明帝即位後、寵愛を受け夫人に拝された。叔父郭立は騎都尉、従父郭芝は虎賁中郎将となった。帝が重篤となった際、皇后に立てられた。

皇太后として

  • 齊王即位後、皇太后と尊称され永寧宮と称した。父郭満を西都定侯と追諡、養子の郭建にその爵を継がせ、母杜氏を郃陽君に封じた。三主(齊王・高貴郷公・陳留王)がいずれも幼くして即位し宰輔が政を執る中、廃立などの大事は必ず太后に諮ってから行われ、毌丘倹・鍾会らの反乱もその名を借りて起こされたという。景元四年(263年)十二月崩御、五年二月、高平陵の西に葬られた。

一族

  • 従父郭芝は散騎常侍・長水校尉に進み、郭立は宣徳将軍となり共に列侯に封ぜられた。郭建の兄郭德は甄氏の養子となり、郭德・郭建はともに鎮護将軍となり宿衛を掌った。

史論

  • 評に曰く、魏の后妃の一族は富貴を極めたとはいえ、衰えた漢代のように政をほしいままにする者はなく、これは往時を鑑とした結果であって美事である。陳羣・棧潛の議論を振り返るに、これらは百代の王の規範となるにふさわしいものであった。