三國志卷三 明帝
文帝の太子、諱は叡、字は元仲(?–239年、享年36)。母甄氏の非業の死により久しく立太子されなかったが、狩猟中の逸話で文帝の意を動かして太子となった。即位後は諸葛亮の北伐や呉との抗争に司馬懿らを用いて対処する一方、洛陽宮の大造営を進めた。幼主曹芳を司馬懿・曹爽に託して崩じ、魏の実権が司馬氏に移る端緒となった。
年表(15件)
- 黃初二年221年斉公に封ぜられる
- 黃初三年222年平原王となる
- 黃初七年226年文帝の病篤により皇太子に立てられ即位、母甄夫人を文昭皇后と追謚
- 太和元年227年新城太守孟達が反し司馬懿に討伐を命じる
- 太和二年228年諸葛亮の侵攻を張郃が街亭で撃退して三郡を平定、曹休は石亭で陸遜に敗れる
- 太和三年229年洛陽の宗廟が完成し祖廟の神主を安置する
- 太和四年230年太皇太后卞氏が崩御
- 太和五年231年諸葛亮の天水侵攻を司馬懿に防がせる
- 太和六年232年諸侯王を郡単位の封国とする改革を行う
- 青龍元年233年摩陂に青龍が現れて改元、保塞鮮卑歩度根の叛乱が起こる
- 青龍二年234年山陽公(献帝)が薨去、諸葛亮は渭南で司馬懿と対峙し陣中で没する
- 青龍三年235年皇太后郭氏が崩御、洛陽宮の大造営が進む
- 景初元年237年暦を改め正朔を定め、公孫淵が自立して燕王を称す
- 景初二年238年司馬懿が公孫淵を襄平で破り遼東を平定、病篤となり曹爽・司馬懿への輔政体制に切り替わる
- 景初三年239年司馬懿に後事を託して崩御。享年三十六
出自と生い立ち
- 明皇帝、諱は叡、字は元仲、文帝の太子。生まれながらに太祖に愛され常に側に置かれた。『魏書』は太祖が幼少の叡を見て「わが基は汝に三世かけて託されよう」と語ったと伝える。学を好み博識で、特に法理に留意した。
- 十五歳で武徳侯に封ぜられ、黄初二年(221年)斉公、三年(222年)平原王となった。母甄氏が誅されたことにより、久しく嗣子に立てられなかった。『魏略』は、文帝の郭皇后に子がなく叡を養わせたが、叡は母の非業の死に不満を抱きつつも郭后に孝養を尽くし、郭后も慈しんだこと、文帝が一時他の妃の子・京兆王を嗣子にしようとしていたことを伝える。
- 『魏末伝』は、文帝の狩猟に同行した叡が母鹿を射殺した父に対し子鹿を射るよう命じられて拒み「陛下すでにその母を殺せり、臣忍びて復たその子を殺さず」と涙したため、文帝が弓を措いて立太子の意を固めたという逸話を載せる。
- 黄初七年(226年)夏五月、文帝の病篤により皇太子に立てられ、丁巳、皇帝に即位し大赦を行った。太皇太后・皇太后を尊号した。『世語』は、即位当初群臣と疎遠であった叡が侍中劉曄と終日語り、曄が「秦始皇・漢武帝に類するが才は微かに及ばぬ」と評したと伝える。癸未、母甄夫人を文昭皇后と追謚。壬辰、弟曹蕤を陽平王とした。
黃初七年(226年)(即位後の内外)
- 八月、孫権が江夏郡を攻めるも太守文聘が堅守。帝は無理な救援を控え、荀禹の援軍で撃退させた。辛巳、皇子曹冏を清河王に立てる。呉将諸葛瑾・張覇の襄陽侵攻を司馬懿が撃破し張覇を斬り、曹休も別将を尋陽で破った。冬十月、清河王曹冏が薨去。十二月、鍾繇を太傅、曹休を大司馬、曹真を大将軍、華歆を太尉、王朗を司徒、陳羣を司空、司馬懿を驃騎大将軍とする人事を行った。
太和元年(227年)
- 春正月、武帝を天に配し、文帝を明堂に宗祀した。江夏南部都尉を置く。西平の麴英の反乱を郝昭・鹿磐が討ち斬る。二月、藉田を耕す。文昭皇后の寝廟を鄴に立てる。夏四月、五銖銭を再開。初めて宗廟を造営。秋八月、西郊で夕月。冬十月、東郊で治兵。焉耆王が子を入侍させる。十一月、毛氏を皇后に立てる。十二月、皇后の父毛嘉を列侯とする。
- 新城太守孟達が反す。司馬懿に討伐を命じた。裴注は孟達の来歴(張讓の家人に賄賂を贈り取り入った孟他の子であること)と、文帝時代に厚遇され書簡を交わした経緯、文帝崩御後に不安を抱き諸葛亮の誘いに応じて内通した経緯、魏興太守申儀の密告を詳しく伝える。
太和二年(228年)
- 春正月、司馬懿が新城を攻め孟達を斬りその首を伝えた。上庸・武陵・巫県を分けて上庸郡、錫県を錫郡とした。
- 蜀の諸葛亮が侵攻し天水・南安・安定三郡が呼応して叛いた。帝は自ら歩騎五万を発して防戦を指示し、曹真に関右都督を命じて進兵させ、張郃が街亭で馬謖らを大破し三郡を平定した。丁未、長安に行幸し、劉備・諸葛亮の背信を非難し益州の民に告げる露布を発した。夏四月丁酉、洛陽宮に還る(帝崩御の流言により雍丘王曹植擁立の動きがあったが誤報と判明した)。乙巳、討亮の功により論功行賞。六月、儒学振興の詔。
- 秋九月、曹休が石亭で陸議(陸遜)に敗績。庚子、曹休が薨去。冬十月、公卿に良将の推挙を命じる。十一月、王朗が薨去。十二月、諸葛亮が陳倉を包囲するも郝昭が防戦し撤退させた。裴注『魏略』は郝昭の来歴と籠城戦の詳細(火矢による雲梯焼却、石による衝車圧壊、井闌への対抗築壁、地下道への迎撃など二十余日の攻防)、及び病没に際し薄葬を望んだ遺言を詳しく伝える。遼東太守公孫恭の地位を甥の公孫淵が奪った。
太和三年(229年)
- 夏四月、元城王曹礼が薨去。六月癸卯、繁陽王曹穆が薨去。戊申、祖父曹嵩を高皇帝、夫人呉氏を高皇后と追尊。
- 秋七月、藩王継嗣の礼制を厳格化する詔を出した(漢の哀帝が外藩から迎えられ実父母を過分に尊んだ先例を戒めとし、以後こうした僭越を犯した臣は誅すと定めた)。
- 冬十月、平望観を聴訟観と改称。帝は「獄は天下の性命なり」として大獄の裁定にはしばしば自ら臨んだ。
- 洛陽の宗廟が完成し、韓曁に高皇帝・太皇帝・武帝・文帝の神主を鄴から迎えさせ、十二月己丑、廟に安置した(裴注は魏初は親廟四室のみを祀り、七廟の制は景初元年に定まったことを付す)。
- 癸卯、大月氏王波調が使者を送り、親魏大月氏王に封じた。
太和四年(230年)
- 春二月壬午、経学の廃絶を憂え浮華の徒を退ける詔。戊子、文帝『典論』を廟門外に刻石するよう命じた。癸巳、曹真を大司馬、司馬懿を大将軍、公孫淵を車騎将軍とする。夏四月、太傅鍾繇が薨去。六月戊子、太皇太后(卞氏)が崩御。丙申、上庸郡を廃止。秋七月、武宣卞后を高陵に祔葬。曹真・司馬懿に蜀征討を命じる。八月辛巳、東巡し中嶽を祀る。乙未、許昌宮に幸す。九月、大雨で伊・洛・河・漢水が氾濫し曹真らに班師を命じた。冬十月乙卯、洛陽宮に還る。庚申、贖罪を許す令。十一月、太白が歳星を犯す。十二月辛未、文昭甄后を朝陽陵に改葬。丙寅、公卿に賢良推挙を命じる詔。
太和五年(231年)
- 春、藉田を耕す。三月、大司馬曹真が薨去。諸葛亮が天水に侵攻し司馬懿に防戦を命じる。前年冬十月からの旱魃に大雩の祭を行う。夏四月、鮮卑軻比能らが名馬を貢いだ。護匈奴中郎将を復置。秋七月丙子、亮の退却により論功行賞(曹真の増援の麦をめぐる裴注の逸話あり)。乙酉、皇子曹殷が生まれ大赦を行う。
太和六年(232年)
- 八月、諸王の京師朝見を制限した先帝の令を再確認しつつ、久しく諸王に会えぬ思いを述べ、適子一人の朝見を許す詔。十一月乙酉、月が軒轅大星を犯す。戊戌晦、日食。十二月甲辰、月が鎮星を犯す。戊午、太尉華歆が薨去。
- なお同年二月には、諸侯王を郡単位の封国とする改革の詔を出した(先秦・両漢の封建制の得失を踏まえ、大魏創業の諸王封国を郡制に改める)。三月癸酉、東巡し高齢者・鰥寡孤独を慰問。乙亥、月が軒轅大星を犯す。夏四月壬寅、許昌宮に行幸。甲子、初めて新果を廟に供進。五月、皇子曹殷が薨去(安平哀王と追謚)。秋七月、董昭を司徒とする。九月、摩陂に行幸し許昌宮を修め景福殿・承光殿を起こす。冬十月、殄夷将軍田豫が呉将周賀を成山で討ち斬る。十一月丙寅、太白昼見。翼宿に星孛が現れる。庚寅、曹植(陳思王)が薨去。十二月、許昌宮に還る。
青龍元年(233年)
- 春正月甲申、郟の摩陂の井中に青龍が現れる。二月丁酉、摩陂に幸し観龍、これにより改元して青龍とし、摩陂を龍陂と改めた。男子に爵位を賜い、今年の租賦を免除。三月甲子、賢良篤行の士の推挙を命じる。夏五月壬申、夏侯惇・曹仁・程昱を太祖廟庭に配祀する詔(漢の功臣廟祀の故事に倣う)。戊寅、北海王曹蕤が薨去。閏月庚寅朔、日食。丁酉、宗室女で王女でない者を邑主に改封。祠典に載らぬ山川の祭祀を禁じる。六月、洛陽宮の鞠室が火災。
- 保塞鮮卑の大人歩度根が叛鮮卑の軻比能と私通し、并州刺史畢軌の出兵がかえって両者を合流させる結果となり、蘇尚・董弼が楼煩で敗死した。歩度根の部落は塞外へ叛出し比能と合流したが、驍騎将軍秦朗の討伐により漠北へ敗走した。
- 秋九月、安定保塞匈奴の大人胡薄居姿職らが叛くも司馬懿配下の胡遵らが討ち破り降した。
- 冬十月、歩度根配下の大人戴胡阿狼泥らが并州に降伏、秦朗は軍を還した(裴注は秦朗・孔桂ら佞倖の臣の事跡を詳述する)。
- 十二月、公孫淵が孫権の遣わした使者張弥・許晏の首を送り、大司馬楽浪公に封ぜられた(裴注は范明友の鮮卑奴の長寿譚、太原の発掘にまつわる怪異譚などの奇聞を付す)。
青龍二年(234年)
- 春二月乙未、太白が熒惑を犯す。癸酉、鞭杖の制を緩和する詔。三月庚寅、山陽公(献帝)が薨去、帝は素服で発哀し使者を遣わして喪事を護らせた。己酉、大赦。夏四月、大疫。崇華殿が火災。丙寅、文帝廟に告祠。山陽公を漢孝献皇帝と追謚し漢の礼で葬った(『献帝伝』は帝が服喪の礼を尽くし、禅譲の徳を称える長大な冊文・贈冊を発したことを詳しく伝える)。八月壬申、山陽国に葬り、陵を禅陵と称し園邑を置いた。適孫の桂氏郷侯曹康が山陽公を嗣いだ。
- 是月、諸葛亮が斜谷を出て渭南に屯し、司馬懿が諸軍を率いて対峙。帝は堅壁持久策を命じた。亮が巾幗(婦人の装い)を送って挑発したが辛毗が節を杖き軍を制止した逸話、宣王が亮の使者に軍事でなく寝食の勤勉さのみを問い「亮の体は保つまい」と評した逸話が伝えられる。
- 五月、太白昼見。孫権が巣湖口に入り合肥新城に迫り、陸議・孫韶も淮・沔に進出。六月、征東将軍満寵が防戦。帝は「地の必争を得れば新城は落ちぬ」として新城放棄案を退けた。秋七月壬寅、帝は自ら龍舟で東征し、権の遁走を受けて寿春に進軍、論功行賞を行った。八月己未、六軍を饗し、合肥・寿春の諸軍を労った。辛巳、許昌宮に還る。
- 司馬懿は亮と対峙を続けたが、亮は陣中で没し、蜀軍は退却した。
- 冬十月乙丑、月が鎮星・軒轅を犯す。戊寅、月が太白を犯す。十一月、京都に地震。十二月、大辟の刑を刪定し死罪を減じる詔。
青龍三年(235年)
- 春正月戊子、司馬懿を太尉とする。己亥、朔方郡を復置。京都に大疫。丁巳、皇太后(郭氏)が崩御。乙亥、寿光県に隕石。三月庚寅、文徳郭后を首陽陵の澗西に葬る(終制の通り薄葬とした)。
- このころ洛陽宮の大造営が進み、昭陽殿・太極殿を起こし緫章観を築いた。楊阜・高堂隆らが度々切諫したが、帝は容認しつつ聴かなかった。裴注『魏略』は宮室・後宮の規模の詳細(女尚書六人、後宮千数百人、司南車・水転百戲を作らせたことなど)と、太子舎人張茂の切諫の上書全文(士女の妻を奪って戦士に配することの不当、宮室造営の贅と国費の窮乏を指弾する)を伝える。
- 秋七月、洛陽の崇華殿が再び火災。八月庚午、皇子曹芳を斉王、曹詢を秦王に立てる。丁巳、洛陽宮に還る。崇華殿を再建し九竜殿と改称。冬十月己酉、中山王曹袞が薨去。壬申、太白昼見。十一月丁酉、許昌宮に行幸。(裴注は張掖の刪丹県で出た瑞石の図讖を、魏晋革代の符応として詳しく記す。)
青龍四年(236年)
- 春二月、太白が再び昼に現れる。夏四月、崇文観を置き文才ある者を集める。五月乙卯、司徒董昭が薨去。丁巳、粛慎氏が楛矢を献ずる。
- 六月壬申、刑罰の濫用を憂え、寛簡を旨とし冤罪を防ぐよう命じる詔。
- 秋七月、高句麗王宮が孫権の使者胡衛らの首を斬り送る。冬十月己卯、洛陽宮に還る。甲申、大辰に星孛が現れ、乙酉、東方にも星孛。十一月己亥、彗星が現れ天紀星を犯す。十二月癸巳、司空陳羣が薨去。乙未、許昌宮に幸す。
景初元年(237年)
- 春正月壬辰、山茌県が黄龍出現を報告。有司は魏が地統を得たとして建丑の月を正月とすべきと奏した。三月、暦を改め年を孟夏四月とした(魏の受命の理を五行相剋に基づき正朔改定した経緯を『魏書』が詳述)。服色は黄、犠牲は白を用い、大赤・大白の旗を建てた。〈大和暦〉を〈景初暦〉と改称。
- 五月己巳、洛陽宮に還る。己丑、大赦。六月戊申、京都に地震。己亥、陳矯を司徒、衛臻を司空とする。丁未、魏興・錫郡の一部を分け上庸郡を置き、錫郡を廃した。
- 有司の奏により、武帝を魏太祖、文帝を魏高祖、明帝自身を魏烈祖とし、三祖の廟を万世不毀、その他は親等が尽きれば順次廃するという廟制を定めた(孫盛は在世中に自ら祖宗の礼制を定めることの非を批判する)。
- 秋七月丁卯、司徒陳矯が薨去。孫権が朱然ら二万で江夏郡を囲むも荊州刺史胡質らが撃退。孫権は高句麗と結び遼東襲撃を図ったが、幽州刺史毌丘倹の遼東出兵は大雨で撤退となった。公孫淵は挙兵して自立し燕王を称し、紹漢元年と号した。
- 詔により青・兖・幽・冀四州に海船を造らせる。九月、四州の水害被災者を賑恤。庚辰、皇后毛氏が卒去。冬十月丁未、月が熒惑を犯す。癸丑、悼毛后を愍陵に葬る。乙卯、洛陽南の委粟山を圜丘とし、曹氏の出自を有虞氏に遡らせた郊祀制度を新たに定めた。十二月壬子冬至、初めて圜丘祭祀を行う。丁巳、襄陽の一部を分け襄陽南部都尉を置く。文昭皇后廟を京都に立てる。(裴注は長安の鐘簴・銅人などを洛陽へ移送させた大工事、及び司徒軍議掾董尋がこの浪費を諫めた上書全文を詳しく伝える。)
景初二年(238年)
- 春正月、太尉司馬懿に遼東討伐を命じた。帝と懿の間で公孫淵の対応・往還の日数を推量する問答が交わされたと裴注は伝える(往路百日・攻城百日・還路百日・休息六十日で一年と見積もった)。
- 二月癸卯、韓曁を司徒とする。癸丑、月が心宿の距星・中央大星を犯す。夏四月庚子、司徒韓曁が薨去。壬寅、沛国の諸県を分け汝陰郡・沛王国を置く。庚戌、大赦。五月乙亥、月が心宿を犯す。戊子詔で、漢の高祖・光武帝陵の保護を命じた。六月、漁陽郡の狐奴県を廃し安楽県を復置。
- 秋八月、焼当羌王芒中・注詣らの反乱を涼州刺史が討ち、注詣を斬る。癸丑、彗星が張宿に現れ、洛邑の凶兆として大がかりな禳祭が行われた。九月、蜀の陰平太守廖惇が反し宕蕈営を攻めたが、郭淮配下の王贇・游弈の討伐は将を失う敗戦に終わった。
- 丙寅、司馬懿が公孫淵を襄平で大破しその首を京都に伝え、海東諸郡が平定された。帝は当初四万の兵は多すぎるとの議論を退け、また長雨で攻城が遅れても懿の臨機の指揮を信頼し続けた。冬十一月、討淵の功により太尉司馬懿以下に増邑封爵を行った。
- 壬午、衛臻を司徒、崔林を司空とする。閏月、月が心宿中央大星を犯す。十二月乙丑、帝は寝疾に伏す。辛巳、皇后を立てる。男子に爵位、鰥寡孤独に穀を賜う。燕王曹宇を大将軍としたが甲申に免じ、武衛将軍曹爽に代えた。『漢晋春秋』は、中書監劉放・令孫資が燕王宇・夏侯献・曹肇・秦朗らの輔政体制を覆し、病篤の帝に強く迫って曹爽・司馬懿の輔政に切り替えさせた宮中政変の経緯を詳しく伝える。
- なお青龍三年中、寿春の農民の妻が天神の降臨を自称し宮中で寵遇されたが、帝の病に効験がなかったため誅殺されたという挿話が付される。
景初三年(239年)――崩御
- 春正月丁亥、太尉司馬懿が河内より駅馬で召還され、帝は病床で「後事を君に託す。曹爽とともに幼主を輔けよ」と手を執って語った。『魏略』『魏氏春秋』は、劉放の計により急遽召された司馬懿が齊王芳・秦王詢を引見し、帝が「これなり、よく見て誤るな」と示した経緯を伝える。同日、帝は嘉福殿にて崩御した(享年三十六。裴松之は暦の改元計算から実際は三十四歳ではないかと注記する)。癸丑、高平陵に葬られた。
人物評
- 『魏書』は、帝の容姿を「望むに儼然たり」と評し、東宮時代は朝臣と交わらず専ら書籍に沈潜していたが、即位後は大臣を礼遇し功績の真偽を厳しく見極め、浮華・讒毀を絶つことに努めたと伝える。記憶力に優れ、臣下の経歴を一度聞けば忘れず、直言を受け入れる度量を持ち、上書には数十百通に及んでも自ら目を通したという。
- 孫盛は、明帝が資質は秀で沈毅果断であり、大臣に権を委ねつつも政治の実権は自ら握った君主の器を備えていたとしながらも、徳を建て風を垂れることに意を用いず、宗室藩屏の基を固めなかったために、後に大権が偏った勢力に帰し社稷が無防備になったことを悲しんでいる。
史論
- 陳寿は評して、明帝は沈毅で果断な資質を持ち任心にふるまい、君主としての器量を備えていたと述べる。しかし当時百姓は疲弊し天下は分裂したままであり、先祖の事業を継いで顕彰することを優先せず、秦の始皇帝・漢の武帝の故事にならって宮殿造営に走ったことを、遠大な計略から見れば失策であったと評している。