三國志卷四 三少帝紀第四 齊王芳(字蘭卿)・高貴鄕公髦(字彥士)・陳留王奐(字景明)

齊王芳――出自と即位

  • 諱は芳、字は蘭卿。明帝には実子がなく、芳と秦王詢を養子として育てた。宮中でのことは秘され、出自を知る者はいなかったという(一説に任城王曹楷の子ともいう)。
  • 青龍三年(235年)、齊王に立てられる。景初三年(239年)正月丁亥朔、明帝が重篤となり、その日のうちに皇太子に立てられ、即日即位して大赦を行った。皇后を皇太后と尊称し、大将軍曹爽・太尉司馬懿(宣王)が輔政にあたった。
  • 詔により、宮室の造営工事はすべて明帝の遺詔に従って中止され、六十歳以上の官奴婢は良人に免ぜられた。
  • 二月、西域から火浣布(石綿布)が献上され、大将軍・太尉に試させて百官に示した。

齊王芳――正始改元まで

  • 丁丑、司馬懿の功績(南で孟達を破り、西で蜀を撃退し、東で公孫淵を滅ぼしたこと)を称え、太尉から太傅に昇任させる詔が下った(持節都督諸軍事は元のまま)。三月、征東将軍満寵を太尉とした。
  • 夏六月、遼東東沓県の吏民が海を渡って斉郡の境に移住したため、故縦城を新沓県として彼らを住まわせた。秋七月、帝が初めて親臨朝政を執り、公卿の奏事を聴いた。八月、大赦。冬十月、鎮南将軍黄権を車騎将軍とした。
  • 十二月、詔で「明帝(烈祖)が正月に崩じたので夏正に復す」とし、建寅の月を正始元年正月、建丑の月を後十二月とすると定めた。

齊王芳――正始元年~二年(240年~241年)

  • 正始元年二月乙丑、劉放・孫資を左右光禄大夫に加官。丙戌、遼東汶・北豊県の流民のため斉郡西安・臨菑・昌国県の境を割いて新汶・南豊県を置いた。
  • 前年冬十二月以来の日照りに際し、丙寅、獄官に冤罪を平らかにするよう命じる詔。夏四月、車騎将軍黄権薨去。秋七月、御府に蓄積した金銀雑器百五十種・千八百余斤を鋳造して軍用に充てる倹約の詔。八月、洛陽近郊を巡視し、高齢者・力田者に恩賜。
  • 正始二年春二月、帝が初めて論語に通じ、太常に太牢で孔子を辟雍に祀らせ、顔淵を配祀させた。
  • 夏五月、呉将朱然らが襄陽の樊城を包囲し、太傅司馬懿が出撃してこれを退けた。呉将全琮も芍陂を、諸葛瑾・歩隲も柤中を侵したが、司馬懿は柤中の民十万を救うべしと主張し親征、暑湿の中で持久を避けて精鋭を選び攻勢の構えを示すと、朱然は夜逃げし、三州口まで追撃して多くを殺獲した。六月辛丑撤退。己卯、王淩を車騎将軍とした。冬十二月、南安郡地震。

齊王芳――正始三年~六年(242年~245年)

  • 三年春正月、東平王徽薨去。三月、太尉満寵薨去。秋七月甲申、南安郡地震。乙酉、蒋済を太尉とした。冬十二月、魏郡地震。
  • 四年春正月、帝が元服し、群臣に恩賜。夏四月乙卯、皇后甄氏を立て大赦。五月朔、日食。秋七月、太祖廟庭に曹真・曹休・夏侯尚・桓階・陳羣・鍾繇・張郃・徐晃・張遼・楽進・華歆・王朗・曹洪・夏侯淵・朱霊・文聘・臧霸・李典・龐德・典韋を配祀。冬十二月、倭国女王卑弥呼が使者を遣わし献上した。
  • 五年春二月、曹爽に蜀征討を命じる詔。夏四月朔、日食。五月癸巳、尚書の講義が終わり太牢で孔子を祀り、太傅・大将軍・侍講者に恩賜。丙午、曹爽帰還。秋八月、秦王詢薨去。九月、鮮卑が内附し遼東属国を置き昌黎県を立てて住まわせた。冬十一月癸卯、荀攸を太祖廟庭に祀った。己酉、秦国を京兆郡に戻した。十二月、司空崔林薨去。
  • 六年春二月丁卯、南安郡地震。丙子、趙儼を司空とするも六月に薨去。八月丁卯、高柔を司空とした。癸巳、劉放を驃騎将軍、孫資を衛将軍とした。冬十一月、太祖廟に祫祭し、佐命の功臣二十一人を初めて配祀。十二月辛亥、故司徒王朗の易伝を学者の課試に用いる詔。乙亥、太傅の乗輿上殿を認める詔。

齊王芳――正始七年~九年(246年~248年)

  • 七年春二月、幽州刺史毌丘倹が高句麗を討ち、夏五月には濊貊を討って共に破った。韓那奚ら数十国がそれぞれ種落を率いて降伏。秋八月戊申、老病の官奴婢を良民に解放する詔。己酉、道路整備で民に過度な負担をかけぬよう命じる詔。冬十二月、礼記の講義が終わり太牢で孔子を祀った。
  • 八年春二月朔、日食。夏五月、河東の汾北十県を割いて平陽郡を置いた。秋七月、尚書何晏が上奏し、君主は交友・観覧を正しくすべきと説いた。冬十二月、散騎常侍孔晏乂が上奏し、天子の宮殿は簡素であるべきこと、後園での乗馬遊興をやめるべきことを説いた。
  • 九年春二月、衛将軍孫資、三月、司徒衛臻がそれぞれ辞任し侯として特進の位に。四月、高柔を司徒、徐邈を司空としたが徐邈は固辞。秋九月、王淩を司空とした。冬十月、大風で屋根が飛び木が折れた。

齊王芳――高平陵の変(嘉平元年・249年)

  • 春正月甲午、帝が高平陵に参拝した際、太傅司馬懿が大将軍曹爽・弟曹羲・曹訓・散騎常侍何晏らを免官とし侯として帰邸させる上奏を行った(高平陵の変)。戊戌、黄門張当が捕らえられ廷尉に付され、曹爽の不軌の謀議が発覚。尚書丁謐・鄧颺・何晏・司隷校尉畢軌・荊州刺史李勝・大司農桓範も共謀者として三族皆殺しとなった(詳細は「爽伝」)。丙午、大赦。丁未、司馬懿を丞相にとの詔が下るが固辞して止んだ。
  • 夏四月乙丑、改元。丙子、太尉蒋済薨去。冬十二月辛卯、王淩を太尉、庚子、孫礼を司空とした。

齊王芳――嘉平二年~六年(250年~254年)

  • 二年夏五月、郭淮を車騎将軍とした。冬十月、孫資を驃騎将軍とした。十一月、孫礼薨去。十二月甲辰、東海王霖薨去。乙未、王昶が長江を渡り呉を攻めて破った。
  • 三年春正月、王基・泰(新城太守)が呉を攻めて破り、数千人が降伏。二月、南郡に夷陵県を置いて降伏者を住まわせた。三月、司馬孚を司空とした。四月甲申、王昶を征南大将軍とした。壬辰、大赦。丙午、太尉王淩が帝を廃し楚王彪を立てようと謀っていることが発覚し、司馬懿が東征した。五月甲寅、王淩自殺。六月、楚王彪に死を賜う。秋七月壬戌、皇后甄氏崩御。辛未、司馬孚を太尉とした。戊寅、太傅司馬懿薨去し、司馬師(景王)を撫軍大将軍・録尚書事とした。乙未、甄后を太清陵に葬った。庚子、驃騎将軍孫資薨去。十一月、太祖廟に配祀すべき功臣を功績の序列で改め、司馬懿を最上位とした。十二月、鄭沖を司空とした。
  • 四年春正月癸卯、司馬師を大将軍とした。二月、皇后張氏を立て大赦。夏五月、武庫の屋根に魚が現れる。この年、諸葛恪が東興堤を修築して両城を築いたため、諸葛誕の献策により魏軍が東関で迎撃したが不利に終わった。司馬師は敗軍の将を罰さず自らの過ちとして庇い、雁門・新興二郡の反乱についても同様に自省したため、人々は感服した。冬十一月、王昶・胡遵・毌丘倹らに呉征討を命じる詔。十二月、呉の諸葛恪が東関で魏軍を大破した。
  • 五年夏四月、大赦。五月、呉の諸葛恪が合肥新城を包囲し、司馬孚がこれを防いだ。虞松の献策により郭淮・陳泰が隴西の姜維を撃退し、新城は張特の奮戦で持ちこたえ、七月に諸葛恪は退いた。八月、詔で郭脩の功(蜀に降った後、費禕を刺殺した忠義)を追賞したが、裴松之はこの評価に疑問を呈している。
  • この年、郡国県道の設置・廃止が数多く行われた。
  • 六年春二月己丑、毌丘倹が合肥新城の囲みの中で節義を守った劉整・鄭像の功を上言し、詔で両名を関中侯とした。庚戌、中書令李豊と皇后の父張緝らが大臣廃立を謀ったが発覚し、関係者は誅殺された。辛亥、大赦。三月、皇后張氏を廃す。夏四月、皇后王氏を立て大赦。五月、王后の父王夔を広明郷侯とした。秋九月、大将軍司馬師が帝の廃位を謀り皇太后に奏上した。甲戌、皇太后令により、帝は乱行を理由に廃され斉に帰された。この日、別宮に移り、時に年二十三であった(晋の受禅後、邵陵県公に封ぜられ、泰始十年〈274年〉、四十三歳で薨じ、厲公と諡された)。

高貴鄕公髦――即位まで

  • 諱は髦、字は彦士。文帝の孫、東海定王霖の子。正始五年(244年)、歘県の高貴郷公に封ぜられた。若くして学を好み、早熟であった。斉王廃位ののち、公卿は髦の擁立を議した。十月己丑、玄武館に至る。群臣は前殿に舎するよう請うたが、髦は先帝の旧処であるとして避け西廂に留まった。法駕での出迎えも辞退。庚寅、洛陽に入り、西掖門南で群臣の拝迎を受けると、儐者に「儀では拝礼せずともよい」と言われても「私は人臣である」として答拝した。止車門で輿を下り徒歩で太極東堂に至り太后に謁見、その日のうちに太極前殿で即位した(鍾会評「才は陳思王(曹植)に同じく、武は太祖に類する」)。詔で斉王廃位の経緯と自らの徳治への抱負を述べ、大赦・改元し、乗輿服御・後宮の費用を削減、尚方御府の技巧の靡麗な品を廃した。

高貴鄕公髦――正元年間(254年~255年)

  • 正元元年冬十月壬辰、侍中を四方に派遣し風俗を観察させ、民の労を慰め冤枉を調査させた。癸巳、大将軍司馬師に黄鉞を仮し、入朝不趨・剣履上殿を許した。戊戌、鄴の井戸に黄龍が現れる。甲辰、廃立定策の功を論じ封爵・増邑・進位・班賜を行った。
  • 二年春正月乙丑、鎮東将軍毌丘倹・楊州刺史文欽が反乱。戊、司馬師が親征。癸未、車騎将軍郭淮薨去。閏月己亥、楽嘉で文欽を破り、文欽は呉に逃亡。甲辰、安風都尉が毌丘倹を斬り、首を京都に伝えた(裴松之は司馬師の親征経緯について疑義を呈している)。壬子、儉・欽の乱に誤って連座した淮南の士民を特赦。鎮南将軍諸葛誕を鎮東大将軍とした。司馬師は許昌で薨去。二月丁巳、衛将軍司馬昭を大将軍・録尚書事とした。
  • 甲子、呉の孫峻ら号十万が寿春に迫るも諸葛誕が撃破し、呉の左将軍留賛を斬り献捷した。三月、皇后卞氏を立て大赦。夏四月甲寅、后の父卞隆を列侯とした。甲戌、王昶を驃騎将軍とした。秋七月、胡遵を衛将軍、諸葛誕を征東大将軍とした。
  • 八月辛亥、蜀の姜維が狄道に侵攻、雍州刺史王経が洮西で大敗し狄道城に籠城。辛未、鄧艾を安西将軍代行とし陳泰と共に防戦させた。戊辰、司馬孚を後詰とした。九月庚子、尚書の講義が終わり鄭沖・鄭小同らに恩賜。甲辰、姜維退却。冬十月、洮西の戦死者遺族への慰撫・賦役免除の詔。十一月甲午、隴右四郡・金城の民で敵に呼応した者の親族を特赦。癸丑、洮西の戦死者の遺骸収集を命じる詔。

高貴鄕公髦――甘露元年~二年(256年~257年)

  • 甘露元年春正月辛丑、軹県の井戸に青龍が現れる。乙巳、沛王林薨去。二月丙辰、帝は太極東堂で群臣と宴し、荀顗・崔賛・袁亮・鍾毓・虞松らと少康と漢高祖の徳の優劣を論じ、少康の徳を高く評価する自説を展開した。
  • 夏四月庚戌、司馬昭に袞冕の服を賜う。丙辰、帝が太学に行幸し、易博士淳于俊と易の由来(連山・帰蔵・周易)について問答し、続けて尚書博士庾峻と堯舜の徳について、礼記博士馬照と「太上立徳」の意義について、それぞれ問答した。帝はまた自らの誕生時の瑞祥を記した自叙を著している。
  • 五月、鄴・上洛から甘露降下の奏上。六月丙午、甘露と改元。乙丑、元城県の井戸に青龍。秋七月己卯、衛将軍胡遵薨去。癸未、安西将軍鄧艾が上邽で姜維を大破し、詔で将士を犒った。八月庚午、司馬昭に大都督号・奏事不名・仮黄鉞を命じた。癸酉、司馬孚を太傅とした。九月、高柔を太尉とした。冬十月、鄭沖を司徒、盧毓を司空とした。
  • 二年春二月、温県の井戸に青龍。三月、司空盧毓薨去。夏四月癸卯、玄菟郡高顕県の反乱で県長鄭熙が殺害された際、遺体を運んだ民王簡の功を賞す詔。甲子、諸葛誕を司空とした。
  • 五月辛未、帝が辟雍に行幸し群臣に賦詩を命じたが、侍中和逌・尚書陳騫らが詩作を遅延した罪を免ぜられた。
  • 乙亥、諸葛誕が召還を拒んで反乱、揚州刺史楽綝を殺害。丙子、連座した淮南の将吏士民を赦す。丁丑、皇太后と共に親征する詔。己卯、龐会・路蕃の忠節を賞す詔。
  • 六月乙巳、呉から投降した孫壹を侍中車騎将軍・仮節・交州牧・呉侯とする詔(裴松之はこの過分な恩賞を、孟達・黄権・孫秀・孫楷らの例と比較し批判している)。甲子、尚書を大将軍軍に随行させる詔。秋八月、諸葛誕に殺された主簿宣隆・部曲督秦絜の子を騎都尉とする詔。九月、大赦。冬十二月、呉の全端・全懌らが降伏。

高貴鄕公髦――甘露三年~四年(258年~259年)

  • 三年春二月、司馬昭が寿春城を陥落させ諸葛誕を斬った。三月、丘頭を武丘と改称する詔(京観・南越平定の漢の故事に倣う)。
  • 夏五月、司馬昭を相国とし晋公に封じ食邑八郡・九錫を加えたが、九度固辞してようやく止んだ。六月丙子、東里袞を救った応余の忠義を賞す詔。辛卯、淮南の功を論じ封爵行賞。
  • 秋八月甲戌、王昶を司空とした。丙寅、三老・五更の礼を復活させ、王祥を三老、鄭小同を五更とした。鄭小同はのちに司馬昭のもとで密疏を見たことを疑われ毒殺されたという。
  • この年、頓丘・冠軍・陽夏県の井戸に青龍・黄龍がしばしば現れた。
  • 四年春正月、寧陵県の井戸に黄龍二匹。帝はこれを吉祥とせず「潜龍の詩」を作って自ら諷したが、司馬昭はこれを不快に思ったという。夏六月、王昶薨去。秋七月、陳留王峻薨去。冬十月丙寅、新城郡を分け上庸郡を再置した。十一月癸卯、車騎将軍孫壹が婢に殺害された。

高貴鄕公髦――弑逆と最期(甘露五年・260年)

  • 春正月朔、日食。夏四月、司馬昭を再び相国・晋公・九錫にとの詔。
  • 五月己丑、高貴郷公卒、年二十。帝は司馬昭の専権に耐えかね、侍中王沈・尚書王経・散騎常侍王業を召して討伐の意を告げたが、王経は諫めて思いとどまるよう説いた。帝は決行を強行し、僮僕数百を率いて出撃したが、司馬昭の弟司馬伷、中護軍賈充らに阻まれ、太子舎人成済に刺殺された。司馬昭は驚愕し、太傅司馬孚は帝の遺体にすがって哭泣したという。皇太后令では帝の乱行と弑逆未遂の経緯が列挙され、庶人として民礼で葬るよう指示されたが、庚寅、司馬孚・司馬昭・高柔・鄭沖の上奏により王礼での埋葬が許された。
  • 常道郷公璜(後の陳留王奐)が明帝の後継として洛陽に迎えられた。辛卯、群公が太后への上奏文の呼称を「令」から「詔制」に改めることを請うた。癸卯、司馬昭が相国・晋公・九錫を固辞。戊申、司馬昭は帝の兵に対する対応と成済処罰の経緯を上言し、成済とその一族は処刑された。
  • 六月癸丑、常道郷公の諱の字が避けにくいため、朝臣に改字を議させる詔。

陳留王奐――即位まで

  • 諱は奐、字は景明。武帝の孫、燕王宇の子。甘露三年(258年)、安次県の常道郷公に封ぜられる。高貴郷公卒後、公卿が擁立を議した。六月甲寅、洛陽に入り皇太后に謁見、その日のうちに太極前殿で即位、大赦・改元し、民に爵と穀帛を賜った。

陳留王奐――景元年間(260年~264年)

  • 景元元年夏六月丙辰、司馬昭を相国に進め晋公に封じ二郡を増封(合計十郡)、九錫の礼を加え、一族の未封侯者を亭侯とし、銭千万・帛万匹を賜ったが固辞してようやく止んだ。己未、漢の献帝夫人節が薨去し献穆皇后と追諡、漢の故事に倣い葬儀を行った。癸亥、王観を司空とし、冬十月に薨去。十一月、燕王が冬至を賀し「臣」と称する上表を行ったが、有司はその呼称の是非を議論した。十二月甲申、華陰県の井戸に黄龍。甲午、王祥を司空とした。
  • 二年夏五月朔、日食。秋七月、楽浪外夷の韓・濊貊が朝貢。八月戊寅、趙王幹薨去。甲寅、司馬昭に晋公進爵・相国加位を命じるも固辞。
  • 三年春二月、軹県に青龍。夏四月、遼東郡から粛慎国の朝貢(弓三十張・楛矢・石砮三百枚・鎧二十領・貂皮四百枚)が上奏された。冬十月、姜維が洮陽に侵攻、鄧艾が侯和で撃破し姜維は退却。この年、郭嘉を太祖廟庭に祀る詔。
  • 四年春二月、司馬昭進爵の詔、固辞。夏五月、蜀討伐の詔が下り、鄧艾に甘松・沓中から姜維を挟撃させ、雍州刺史諸葛緒に武都・高楼から進撃させた。鎮西将軍鍾会には駱谷からの蜀討伐を命じた。
  • 秋九月、太尉高柔薨去。冬十月甲寅、司馬昭進爵の詔。癸卯、皇后卞氏を立て、十一月大赦。
  • 鄧艾・鍾会の遠征は連戦連勝し、蜀主劉禅は鄧艾に降伏、巴蜀は平定された。十二月庚戌、鄭沖を太保とした。壬子、益州を分け梁州を置いた。癸丑、益州士民を特赦し租賦を五年間半減。乙卯、鄧艾を太尉、鍾会を司徒とした。皇太后崩御。

陳留王奐――咸熙元年(264年)

  • 春正月壬戌、檻車で鄧艾を召還。甲子、長安に行幸。壬申、華山を璧幣で祀る使者を派遣。この月、鍾会が蜀で反乱を起こしたが討伐され、鄧艾も殺害された。二月辛卯、益州在住者を特赦。庚申、明元郭后を葬る。三月丁丑、王祥を太尉、何曾を司徒、荀顗を司空とした。己卯、晋公の爵位を晋王に進め十郡を加封(合計二十郡)。晋王への礼をめぐり王祥・何曾・荀顗の間で議論があり、荀顗は拝礼したが王祥は長揖にとどめたという。丁亥、劉禅を安楽公に封じた。
  • 夏五月庚申、司馬炎(晋王世子)が五等爵の復活を上奏。甲戌、改元。癸未、舞陽宣文侯(司馬懿)を晋宣王、舞陽忠武侯(司馬師)を晋景王に追贈。六月、雍州の衛瓘が成都で璧玉印を得た瑞祥(孫盛はこれを公孫述の故事によるものかと推測している)。
  • この頃、蜀平定後に呉が永安に迫ったが、荊・豫の援軍により七月に退却した。八月庚寅、司馬炎を相国事の副とする詔。癸巳、鍾会の乱における夏侯和・朱撫・賈輔・羊琇・王起らの忠節を賞す詔。癸卯、司馬望を驃騎将軍とした。九月戊午、司馬炎を撫軍大将軍とした。
  • 辛未、交阯の呂興が呉の暴政に叛き魏に帰順した経緯を述べる詔が下り、呂興を都督交阯諸軍事・上大将軍・定安県侯に任命したが、策命が届く前に部下に殺害された。冬十月丁亥、呉討伐の詔(呉の内情悪化と交阯・武陵・豫章の離反を挙げ、徐紹・孫彧を使者として派遣し呉を説得することとした)。丙午、司馬炎を晋世子とした。
  • この年、屯田官を廃し典農を太守、都尉を令長に改めた。蜀人の移住者には廩米二年分と二十年の賦役免除を与えた。安彌・福禄県で嘉禾の瑞祥。

陳留王奐――咸熙二年から禅譲へ(265年)

  • 春二月甲辰、朐䏰県が霊亀を献上。庚戌、鍾会の乱で成都から諸営に急報した張脩の功により弟倚に恩賜。夏四月、南深澤県で甘露降下の奏上。呉が紀陟・弘璆を遣わし和議を求めた。
  • 五月、司馬昭に呉の献上品を辞退し返還させる詔、また冕十二旒・天子旌旗・出警入蹕等の礼制を命じる詔。王妃を王后に、世子を太子に進めた。癸未、大赦。秋八月辛卯、司馬昭薨去。壬辰、司馬炎が晋王位を継承。この月、襄武県で巨人出現の瑞祥報告があった。九月乙未、大赦。戊午、何曾を晋丞相とした。癸亥、司馬望を司徒、石苞を驃騎将軍、陳騫を車騎将軍とした。乙亥、司馬昭(晋文王)を葬った。閏月庚辰、康居・大宛が名馬を献上。
  • 十二月壬戌、晋への禅譲を命じる詔。甲子、使者が策を奉じた。帝は金墉城に移り、後に鄴で暮らした。時に年二十。晋の陳留王に封ぜられ、五十八歳、太安元年(302年)に崩じ元皇帝と諡された。

史論

  • 評に曰く、古来天下は公のものとされ、賢者のみが位に就くべきとされた。後世は嫡子相続が定着したが、適嗣が絶えれば傍系の明徳の者を立てるのが漢の文帝・宣帝以来の常道である。明帝は実子なく私愛から嬰孩を養い皇統を託したが、その血統は正統でなかったため、ついに曹爽誅殺と斉王廃位に至った。高貴郷公は才知早熟で文帝の風流を継いだが、軽躁で自ら大禍を招いた。陳留王は恭しく南面し、宰輔の統政に従い前例に倣って禅譲したため、大国に封ぜられ晋の賓客として山陽公(漢献帝)以上の待遇を受けた。