三朝北盟會編炎興下帙 高宗 紹興 三十二年 1162年
閏二月 洪邁、金への国書を送る
- 国信副使洪邁は金の担当官に宛てた書簡で、旧来の敵国の礼にもとづく通好の意向を伝えた。金の新帝(世宗)が仁厚であるとの評判を踏まえ、追撃を控え和議の再開を望む旨を述べた。あわせて海州での金軍の攻撃も伝えられた。
閏二月十六日 呉璘、大散関を回復
- 呉璘配下の姚仲らが数か月にわたり大散関を攻めていたが陥落しなかった。姚仲の幕属朱紱は、四川の民から軍費を科斂して厚い恩賞を出すべきだと総領王之望に進言。王之望はこれに強く反論し、軍の失敗を民への科斂不足のせいにすべきではないと諭す長文の返書を送った(両者の書簡論争が詳細に記される)。
- 閏月末、将官楊大亨・田昇らが夜襲により散関・和尚原を攻略し、金軍は宝鶏方面へ退却した。
三月八日 扈従官への恩賞をめぐる議論
- 高宗の視師に随行した官吏・軍民への転官・恩賞が発せられたが、臣僚から「功なくして賞するのは公器を軽んじる」との批判が上奏された。高宗は金国側の過大な賞格を引き合いに、軍の統制が緩んでいる証左だと述べた。
三月九日 将帥への叙任
三月十一日~二十二日 金使の来朝と通交儀礼
- 大金国の使者が入朝し、都亭駅に安置された。洪邁が起居舎人として接待にあたり、のち翰林学士を権官されて答礼の大金国称賀使に任じられた。
- 金使は御筵を賜り、玉津園での射礼(雨天中止)、朝辞の儀を経て、二十二日に帰路についた。
四月六日 王宏、㑹州を回復
四月 陳州の陥落
- 陳享祖が忠義軍を率いて陳州を守っていたが、金軍の増援により力尽き、流矢に当たって戦死。城も陥落し、南門は焼け落ち、母や一族多数が殺害された。以後、官軍は既存の防衛線を守るにとどまった。
- 高宗は帰順者への処遇(南北出身による差別をせず、能力に応じ官職や就学の機会を与える)を厚くするよう詔を下し、宰相陳康伯がこれを奉じて施行した。
四月二十三日 海州の包囲解除
- 洪邁らが北界(金の国境)を通過する中、張子蓋が海州の包囲を解いたとの戦勝が奏上され、宰相らが祝賀した。