三朝北盟會編炎興下帙 高宗 紹興 三十二年 1162年

正月一日~十二日 鎮江から建康への進幸

  • 正月一日、高宗は鎮江府に駐蹕。二日、劉繹が正式に知泗州に任じられた。三日、鎮江を出発し、五日に建康府へ進幸した(雪の中、高宗は氈笠・氈衣で自ら風雨を凌いだ)。
  • 六日、安豐軍の孫顕忠が寿州を回復した。
  • 九日、江州駐劄の戚方が転運使に宛てた書簡で、淮北の忠義人と協力して壽春府を回復した経緯(金の物資・捕虜の大量獲得を含む)を報告した。
  • 十二日、金軍撤退により李顯忠が建康への撤収を命じられた。淮西の荒廃により、士卒の中には厳寒で凍傷になる者もいたが、李顯忠は病を押して各軍を巡撫した。高宗は帰還する軍を建康府南門で親しく出迎え、李顯忠には御酒などが下賜された。

正月十五日 趙樽、蔡州で金軍を撃退

  • 蔡州で趙樽は金の大軍(魏都監率いる五万余騎)の攻撃を受けたが、将士を励まし城壁での激戦の末にこれを撃退した。金の将官・千戸級の戦死者も多数出た。

正月十八日 耿京配下の帰順と辛棄疾の来朝

  • 山東の反金義軍指導者耿京の使者賈瑞らが、進士辛棄疾を伴い南下し、建康で高宗に謁見。耿京は天平軍節度使、賈瑞は修武郎閤門祗候、辛棄疾は右承務郎に任じられ、多数の随員にも官が授けられた。

正月二十日 王友直らの帰順

  • 大名府で挙兵していた王友直・王任・王革らが南宋に帰順し、防禦使・団練使などの官を授けられた。

正月二十八日 趙樽、蔡州を放棄

  • 呉拱の指示により趙樽は孤軍の蔡州からの撤退を決定。撤退時、南門で軍民が殺到して将官同士が争う混乱が生じ、多数の死傷者を出した。翌日、金軍が蔡州に再入城した。
  • 右正言劉度は上奏し、恩賞は実際に陣頭で首級・捕虜を得た者にのみ与え、僥倖による叙賞は慎むべきだと説いた。