三朝北盟會編炎興下帙 高宗 紹興 三十一年 1161年
十二月一日 趙樽、蔡州を奪回
- 趙樽は麻城から蔡州駐劄を命じられていたが、鄂州都統呉拱・荊南都統李道との連絡が取れないまま、偽刺史蕭楙徳の守る蔡州へ夜襲をかけ、城を奪回した。荒廃した城壁を修治し、李詢を知州として据え直した。
十二月一日 知通州崔邦弼、降官放罷
- 通州知州崔邦弼は金軍の秦州掠奪を恐れて城を放棄しようとし、混乱に乗じて夜間に城内外へ放火して逃走した。通判趙不悔も同様に逃亡。事後、両名は官を降されて放免された。
十二月一日 呉拱ら、鄧州を回復
- 湖北京西北路招討使呉拱・都統李道の命により、将官劉革らが鄧州新野鎮で金の陣営を奇襲し撃退。十二月六日、金軍は城を放棄して逃走し、鄧州は回復された。
十二月二日 金国、班師と通好を牒す
- 金国都督府より、完顔亮(正隆)の無道による廃殺と新主(世宗)擁立、班師と通好の意志を伝える牒文が届いた。三省・枢密院は返牒を送り、事の照会を行った。
十二月三日 行在への戦勝報告と論功行賞
- 采石の戦勝を伝える早馬が行在に到着。高宗は「金亮はすでに滅び、残る兵は南北の民が駆り出されたに過ぎない」として、追撃はしても濫殺は避けるよう諸将に命じた。
- 召見された虞允文は戦功を将士に譲り、張振・時俊・王琪・盛新・戴皋らが正任承宣使・観察使に昇進した。世宗(完顔亮の後継)の肖像に対する高宗の御製画賛も記された。
十二月四日 成閔、揚州を回復
- 成閔が揚州を奪還した。あわせて、戦費調達のための州郡による過剰な献納・科斂の弊害を禁じる詔が出され、民からの強制的な取り立てを禁止し、自発的な献納のみを認めるとした。
十二月五日 諸臣への訓戒の詔
- 高宗は逆亮の背盟による侵犯を受けて親征に赴く意志を示し、各地の文武官に対し、職務を怠らず、無用な徴発や獄訟の濫用を慎むよう戒める詔を発した。
- 成閔は鎮江府から渡江して追撃を試みたが、実際には金軍の主力にはあまり肉薄せず、虚勢を張って引き揚げるにとどまった。泗州でも金軍はすでに撤退しており、追撃した将士は空振りに終わった。
- あわせて、韓彦直・襲濤・向軍権・呂擢らを各路の隨軍転運使・招討使に任じる人事が発せられた。