三朝北盟會編炎興下帙 高宗 紹興 三十一年 1161年

十一月二十八日 范成大「攬轡録」――燕京(中都)の実見記

  • 南宋使節范成大は盧溝河を越えて燕山城(燕京)に入り、豊宜門・玉石橋・龍津橋・宣陽門などを経て宮城に至った経路を詳細に記す。宮城の門は東西南北に十二門あり、正門は皇帝出入りの時のみ開かれ、両脇の門を常用とした。
  • 宮中の大安殿・仁政殿などの構造、儀衛の配置(紅茸甲・金纒竿鎗を持つ兵、金鍍銀帯の官人ら)、金主の坐所(七宝榻、大龍屏風)の様子が描かれる。
  • 燕京の造営は完顔亮の代に孔彦舟らが主導し、民夫・軍卒あわせて百二十万人を動員、数年を要し多くの死者を出した。旧墳墓地を掘り返して用地に充てるなど、奢侈と犠牲の大きい事業であった。

官制の整備(大定二年詔)

  • 世宗(葛王)は大定二年十二月の詔で官制を大きく整理した。三師・三公・尚書省(宰相・執政官)・六部・都元帥府・枢密院・大宗正府・勧農使司・殿前都点検・宣徽院・御史台・翰林学士院・司天台・国史院・太常寺・秘書監・諫院・大理寺・国子院・記注院・大府監・小府監・都水監・四方館など、宋に類する多数の官司が整備された。
  • 文武の散官は正従九品にわたり、開府儀同三司から将仕郎・校尉に至る位階が細かく定められた。佩服(帯・魚符など)の制も官品ごとに規定された。
  • 暦法は独自の「大明暦」を用いたが、金は建国当初年号を持たなかったため、のちに遡って年号を補ったことが記され、著者はこれを「最も可笑しい」点として指摘する。
  • 行政区画は中都路以下十四路に分かれ、府三十四・節鎮三十六・防禦二十三・刺史七十三・軍十六・転運十四使が置かれたと記す(内容は前巻の集計と概ね一致する)。

金国朝廷の人物録

  • 使節が見聞した金の廷臣として、太尉尚書令李石(世宗の元妃の父)、左丞相赫舎哩良弼、右丞相赫舎哩志寧、左右平章完顔喀齊喀・完顔錫喇、左右丞石琚・孟浩ら宰執クラスの陣容が記される。
  • 軍事を統べる将としては、赫舎哩志寧・爪爾佳仲恭・烏庫哩執中・納哈塔士挙・唐古安礼らの経歴が簡潔に紹介される。それぞれ護衛将軍や招討使などの出身で、女真人・契丹人が中心である。
  • 亮・葛王(世宗)の代で活躍した状元・進士出身の文官として、石琚・魏履元・敬嗣暉・任熊祥・李受・梁球・王兢・胡勵・張恭愈・蔡珪・張汝霖・張汝為・劉仲山・李天吉・高懷忠・高懷正・蕭兼ら多数が科挙及第の年次・出身地とともに列挙され、多くが亮の粛清や世宗即位後の復官を経験している。
  • 館閣・台諫を担った文官として鄭子𣆀・劉仲淵・張景仁・楊伯雄・楊伯仁・王彦潜・綦戬・劉機・孫用康・呂宗翰・孟宗献・任忠傑・李晞顔ら、卿監クラスとして王堪・畢逢古・徐之方・任侗・任倜・田穀・馬柔徳・王仲通・王従龍・孔固・楊蟠・張錫・王全らの名と経歴が列挙される。