三朝北盟會編炎興下帙 高宗 紹興 三十一年 1161年

十一月二十八日 国史院編修官員興宗「采石戦勝録」(虞允文の証言)

  • 虞允文(文中「虞侯」)は、金主完顔亮の南侵計画をかねて予見しており、淮西方面から本隊が出て海道からも奇兵が出ると朝廷に上奏していた。金主は当初汝州に駐屯して長江上流への侵攻を装ったが、実際は淮東・淮西方面から主力を進めた。
  • 劉錡は楚州で防いだが淮東の地は失われ、瓜洲でも大敗した(劉汜の敗戦)。王権は淮西方面で戦わず退却を重ね、和州から采石へ逃走した。
  • 虞允文は葉義問と共に江淮を督視する任を受け、王権罷免・李顯忠交代の命を伝えるため采石へ赴いた。現地では将士が主なき状態で士気を失っていたが、虞允文は自ら陣頭に立って督戦を約束し、将士を奮い立たせた。
  • 采石での戦いでは、統制盛新・張振・戴皋・時俊らが金軍の渡河船団を迎撃し、多数を撃破・溺死させた。虞允文は歩軍・水軍を配し、江中で敵船を焼き払わせた。
  • 戦後、虞允文は鎮江の防備強化を進言し、劉錡・楊存中・成閔と協議して船の点検・訓練を実施した。金軍はこれを見て渡江を断念し、揚州へ引き返した。
  • のち完顔亮の陣中で内乱が起こり、諸将が亮を弑殺(十一月二十七日)、金軍は瓜洲方面へ撤退した。虞允文は建康・行在へ赴いて戦況を報告し、高宗より慰労を受けた。

十一月二十八日 張棣「正隆事迹記」――完顔亮の統治と滅亡

  • 完顔亮(正隆帝)は即位後、燕京(中都)遷都を進め、宮室・宗廟を大規模に造営し、汴京(南京)の大内も改修するなど土木を重ねて民力を疲弊させた。
  • 晋書の苻堅伝を読んで感嘆し、漢高祖に自らをなぞらえるなど覇業への野心を強めた。夢占いに天命を得たと称し、南征の意志を固めた。
  • 翰林官の諫言(乙薬祁使ら)を退けて処刑するなど諫めを容れず、皇太后の諫止に対しても激しく応じた。
  • 正隆六年(紹興三十一年)、大軍を発して南侵したが、途上で王友・耿京・陳俊ら各地の反乱に直面した。淮甸に至り渡江を試みるも果たせず、内部の不満(渡江失敗・厭戦気分)が高まった。
  • 十一月、威勝軍万戸耶律らが、亮による粛清を恐れて謀反を決意し、夜に亮を弑殺した。都督李通も乱軍に殺され、金軍は四散して帰還した。