三朝北盟會編炎興下帙 高宗 紹興 三十一年 1161年

十一月十七日 王彦、華州を奪回

  • 都統制王彦が郭堪・邢進らに命じ華州城を攻撃させた。第七将官邢進らは寅の刻より攻めて巳の刻に城を陥落させ、金の同知招武大将軍韓愿・信武将軍韓鎔・劉括ら32人を捕らえ、軍馬・武具を多数得た。城内の軍民を鎮撫した。

十一月十八日 王権の処分をめぐる論争

  • 淮西方面軍を率いた都統制王権は、金軍南下に際し出陣を遅らせ、家族との別れに三日を費やし、歴陽で城壁の修築にのみ専念して淮河沿岸の防備を怠った。
  • 劉錡の督促にも従わず寿春から和州への駐留に固執し、軍の派遣を遅延させて廬州から金軍の渡河を許した。
  • 尉子橋の戦いでは配下の姚興軍が奮戦・戦死する間も援軍を送らず、旗を偽装して勝利と偽って報告した。
  • 和州撤退の際には金字牌を得たと偽り、城の糧食・武具を放置したまま采石へ逃走。軍民が争って渡河・溺死する惨事を招いた。
  • 臣僚らは繰り返し上奏し、斉威王の賞罰の故事や太祖・真宗の陣頭処断の先例を引いて厳罰(斬首・梟首)を求めたが、朝廷は「特に死一等を減じ、除名・勒停のうえ瓊州編管」とし、臨安府に護送を命じた。

十一月十九日~二十日 諸将の移動

  • 十九日、成閔が襄陽より帰還し、建康府で葉義問に謁見した。
  • 二十日、成閔は鎮江府に到着した。

十一月二十三日 完顔亮、鎮江に迫る

  • 金主完顔亮は瓜洲より揚州へ進み、州の東南に布陣した。都統制李横が水軍を出して威を示すと、金の一万戸が渡江の延期を進言したが、亮は激怒しこれに杖刑五十を科した。

十一月二十五日 将帥の再配置

  • 成閔を鎮江府駐劄都統制、李顯忠を淮南西路制置使、呉拱を湖北京西路制置使とする人事が発せられた。

十一月二十六日~二十九日 泰興・泰州の攻防

  • 金主は揚州から傾国して来攻した。泰興知県尤袤は民衆の苦しみを詠んだ詩「淮民謡」を残しつつ城を守った。
  • 楊存中は前軍統制王剛を泰州へ派遣。二十六日、金の騎兵が泰興城下に攻め寄せたが、王剛は城を固守し、出撃と迎撃で金兵を多数討ち取り、渤海兵らを捕虜とした。
  • 二十七日、泰州が陥落した。もと知州孫政は離任し、通判王濤も転任していたため、都監趙福が知州事を代行していた。水寨都統胡深・副臧珪は水寨を捨てて泰州入りし、宣撫使葉義問により知州・通判に任じられたが、金軍来襲を知ると姜堰の堤を切って運河の水を抜いたうえで真っ先に逃走した。水の涸れた堀から金軍が城に入って放火・殺戮を行い、趙福は乱軍の中で死亡、住民の多くが捕虜となった。