三朝北盟會編炎興下帙 紹興三十一年 1161年

十月十八日丁巳 興師の告祭と督視軍馬の任命

  • 金の背盟による興師を天地・宗廟・社稷に告げる儀礼が定められた。同日、行軍にあたり道路整備等での民の負担軽減を命じる詔も発せられた。
  • 十九日、知枢密院事葉義問が江淮荆襄軍馬の督視に任じられ、中書舎人虞允文が参議軍事、馮方・洪邁らが幕僚として付けられた。

太学生宋芑の上書

  • 太学生宋芑は葉義問に書を送り、金の南侵の意図が三十年来の東南併呑策の実行であるとし、和議への安住を厳しく批判した。金使への対応として、正使を斬って叛盟の罪を天下に示し、副使を送り返して国威を示すべきだと説き、あわせて秦檜の棺を断ち死体を戮し、その子孫を処罰して岳飛の爵位を回復するなど、和議推進派への断罪と忠義派の顕彰を求めた。

邵宏淵、西府橋・真州で敗退

  • 金の万戸蕭琦が滁州から真州方面へ進撃、邵宏淵は酔って十分な指揮を執れぬまま西府橋で交戦し、部将三名が戦死、真州が陥落した。世評では邵宏淵の奮戦が誇張して伝えられたが、実際には戦況を掌握できていなかったと『遺史』は記す。
  • 劉錡は退いて揚州に入り、州の防衛が困難と判断して瓜州への撤退を検討した。

十月二十日 各地の動き

  • 金軍が滁州を攻撃。王彦配下が陝西の商州・豊陽・商洛県を回復し、金の知州以下多数を捕らえた。
  • 張燾が建康府に着任し、当初は防備薄弱で住民の避難が相次いだが、着任後に人心が落ち着いた。

十月二十二日 和州陥落

  • 王権は姚興の戦死を受けて和州を守れないと判断し、渡江して南へ退いた。殿軍の韓林が城に放火して混乱を招き、金軍はこれに乗じて和州を占領した。

十月二十三日 劉錡、瓜州へ退却

  • 邵宏淵の敗退により揚州も危険にさらされ、劉錡は民家を壊して浮橋を作り軍を撤退させ、瓜州へ退いた。和州陥落では、糧秣・軍需が金軍の手に渡り、民衆・敗残兵が江を渡ろうとして溺死する惨事が相次いだ。淮南安撫劉澤も揚州を放棄して逃走した。
  • 高宗は用兵の不首尾を受け、正殿を避け食事を減らす詔を発した。

十月二十六日 皂角林の戦いで金軍を撃破

  • 金の大軍が瓜州渡へ迫る中、劉錡配下の左軍統領員琦が皂角林で奮戦し、金兵約三千を運河・湖中に追い落として大勝した。劉錡はこの戦果を朝廷に報告、高宗は褒賞を約した。
  • 一方、督視葉義問が戦況報告中の「生兵(増援)」の語を理解していなかったという逸話が伝わり、世人はこれを揶揄した。

十月二十七日 劉錡、鎮江へ帰還・趙樽の蔡州攻略

  • 劉錡は瓜州で連日交戦した末、金字牌により江南へ召還され、病躯を押して鎮江府に帰還した。劉汜らが瓜州渡の守備に残された。
  • 趙樽は信陽軍から蔡州方面へ進撃し、新蔡県・平輿県を経て蔡州を攻略、金の万戸楊総管を討ち取った。降伏した簽軍(強制徴兵された漢人兵)を処罰せず寛大に扱い、住民の歓迎を受けた。宣諭使汪澈はこの戦果を朝廷に報告した。