三朝北盟會編炎興下帙 紹興三十一年 1161年

十月十七日丙辰 金軍の廬州占領と楊春の忠節(廬州忠節録)

  • 金軍が廬州に入り、知州康定山を殺して赫舍哩を同知に据えた。『合肥野叟楊廬州忠節録』は、この前後の廬州駐泊兵馬都監楊春の奮戦を詳しく伝える。
  • 完顔亮の南侵に際し、建康都統王権をはじめ守将らが次々と廬州を放棄して逃走する中、楊春は独り城の防衛を志願、安撫龔濤らが逃亡した後も残留兵をまとめて中派河口に拠点を築き、周辺の水寨・郷兵を糾合して防衛線を維持した。
  • 金主完顔亮自ら廬州に入城し、擄えられた住民を懐柔する一方、楊春は夜襲を繰り返して金軍の糧倉を焼き払い、多数を討ち取るなど遊撃戦を展開した。十二月には金の招撫使康定山を自ら討ち取り、廬州を奪還、周辺の避難民を帰業させるなど大きな戦功を挙げた。
  • しかし当時の諸将は自らの敗退を恥じて楊春の功績を上に伝えることを妨げ、正当な褒賞を得られなかったという。『野叟続録』は、後年(隆興二年)の同地方の再度の敗退と対比し、楊春の忠烈が民に長く慕われたと結ぶ。

その他の各地戦況

  • 邵宏淵が六合で金軍を撃退したとの捷報があった。
  • 興化府知事姚仲配下が陝西鳳翔府盩厔県で金の拠点を攻略し、宣威将軍らを捕らえる戦果を挙げた。
  • 尉子橋の戦いでは、統領姚興が王権配下として金軍と交戦し、援軍が届かぬまま戦死した。朝廷は姚興の忠勇を惜しみ、贈官と廟の建立を許した。王権は指揮を怠り、姚興の危急を知りながら援軍を送らず、偽の勝報を朝廷に上げていたことが記される。王権はその後、和州を放棄し采石へ渡って逃れた。