三朝北盟會編炎興下帙 紹興三十一年 1161年

十月八日丁未 劉錡、淮陰で金軍と対峙

  • 劉錡は盱眙軍から進んで淮陰に布陣し、探索の結果、金軍が清河口方面に大船団を集結させている実情をつかんだ。金軍は淮河北岸に鉄騎を並べ、対峙が続いた。

契丹への通好榜と続く招諭

  • 三省枢密院は契丹に対し、旧誼を訴えて金討伐への協力を呼びかける榜文を発した。あわせて渤海・奚・契丹など金支配下の諸族に対しても、完顔亮による弑逆・虐政を非難し、投降者には過去を問わず優遇するとの招諭を重ねて示した。

各地の攻防

  • 金軍が廬州を攻め、建康都統王権は交戦せず軍を退いて逃走した。安撫龔壽も廬州陥落時に城を捨てて逃げた。
  • 池州駐劄李顕忠は正陽方面での戦闘で金の万戸郭・韓将軍配下五千余を撃破したと報告した。和均州の武鉅は北界の忠義人二万余を招き入れる戦果を上げた。
  • 湖北京西宣諭使汪澈は、荆門軍知事姚岳が善政により民心を得ているとして再任・昇進を推挙した。

淮東西の連絡途絶と諸将の混乱

  • 淮西の王権軍と淮東の劉錡軍との間で文書連絡が途絶し、劉錡配下の劉汜が偵察に赴いたが金軍に阻まれた。
  • 淮南運判莫濛は軍需輸送を怠り遷延したとして降格・罷免された。中使が劉錡の陣中に赴き、高宗の意向を伝えた。劉錡は死をもって国に報いる決意を示した。

金軍の滁州占領

  • 完顔亮は淮西方面から廬州・和州を経て南下する一方、別働隊の万戸蕭琦の騎兵が滁州を攻略、知軍事陸亷は城を捨てて逃走した。金軍は当初、住民を殺さず略奪もせず懐柔的な姿勢を示したが、これは淮南転運副使楊抗が事前に敷いた焦土作戦の備え(烽火台の乾草など)を利用したものであったとされ、楊抗が金に内通していたのではという疑いが人々の間に広まった。

呉璘、秦州を回復

  • 呉璘配下が秦州を攻略し、金の官吏多数を捕らえた。高宗はこれを喜び、宰相陳康伯らと共に、中原の民が漢の威儀を再び見る喜びを語り合った。

襄陽・樊城の激戦

  • 荆襄方面では、金の劉萼が号十五万の兵で光化を経て襄陽・樊城に迫った。守将呉拱は当初、防備不足を理由に退却しようとしたが、宣諭使汪澈の叱責で襄陽に戻り防戦した。樊城の浮橋を巡る攻防では、守将翟貴・王進が戦死するなど苦戦したが、最終的に金軍を撃退し「樊城の功」として賞された。

廬州・和州方面の戦況

  • 建康都統王権は和州城下で金軍の大寨を奇襲し、大戦果を上げたと報告した。

劉錡、淮陰から退却

  • 劉錡は金字牌(緊急命令)により淮陰から退却を命じられた。淮西の王権軍が廬州を放棄し連絡も途絶えていたため、劉錡は楚州・宝応方面へ軍を退いた。撤退の混乱の中、淮甸の民は動揺し道中で多数が命を落としたという。

戸部の献金奨励策

  • 戸部は、軍費不足を補うため、富裕な家に自発的な献金を促す施策を上奏し、献金の多寡に応じて恩典を与えることとした。