十月六日乙巳 呉璘、大散関で捷報
- 呉璘は九月に鳳翔から侵入した金軍を大散関で撃退したとの捷報を上げた。高宗はこれを受け、金主完顔亮の使者王金がかつて将相の引き渡しや淮漢の地の割譲を要求してきた経緯を振り返り、和議破棄の責任は金側にあると宣言、三道からの招討軍出撃を命じる詔を発した。
金国内の政変――完顔雍(葛王裒)の即位
- 八月丁未、完顔亮が南征のため国内を留守にする隙に、遼陽府にて完顔雍(葛王裒、太祖の孫)が擁立され即位した(後の世宗)。『神麓記』によれば、遠征に動員された女真・渤海・契丹などの将兵が「無道の遠征で身を滅ぼすよりは」と離反し、東京留守であった完顔雍を擁立したという。
- 即位の詔では、先帝熙宗の廟号を回復する一方、完顔亮についてはその簒奪・弑逆の罪状を長大に列挙した。太宗の子孫・宗室・功臣ら多数を無実のまま虐殺したこと、実母を殺害したこと、会寧府の宮殿破壊や中都・南京の造営による民力の浪費、宋との和議を破って無謀な南征を強行したことなど、数十条にわたる罪状が挙げられ、完顔亮を廃して庶人とし、熙宗を正式に廟に祀り直すことが宣言された。
- あわせて改元(正隆から大定へ)と大赦が発せられ、簽軍で徴発された貧民の債務免除、逃亡兵・避役者への恩赦、流刑者の帰郷許可など、広範な民生安定策が示された。
- 将士への恩賞を増す詔も発せられ、南征に動員された将兵の労苦を慰撫する内容であった。
- 完顔雍の子允恭が皇太子に、允恭の子璟が皇太孫に立てられた。璟が「宋の故都開封や皇陵を焼き払うべき」と過激な進言をした逸話や、これに対し臣下の鈕祜禄穆雅が内政の安定と対外融和を説いて諫めた逸話も記される。
西夏からの檄書
- 西夏は劉錡・成閔・呉璘ら宋の招討使に宛てて檄書を送り、金の背盟と暴虐を非難し、宋の親征を歓迎する意を表した。西夏はかつて金への臣従を余儀なくされていた経緯を述べつつ、宋との旧誼を思い、共に金を討つ姿勢を示した。