三朝北盟會編炎興下帙 紹興三十一年 1161年

九月二十九日戊戌 招諭の榜文と賞格の制定

  • 三省・枢密院は金の背盟による南侵に対し、中原の百姓・諸国の人々に向けた招諭の榜文を発した。宋への帰順を呼びかけ、州県単位で帰順すれば知州・知県に任じる、忠義の士は褒賞する、軍は民を害さず租税を十年免除する、金の過酷な賦役・酷刑を撤廃するなどの条件を掲げた。
  • あわせて帰順・投降の実績に応じた具体的な賞格(渤海・漢児の招致数、女真・契丹の帰順者数などに応じた官職授与の基準)を定め、統兵の大帥には各軍が連携して敵に当たるよう詔した。

呉璘、蘭州・隴州を回復

  • 呉璘配下の張彦忠らが金の熙河蘭州の千戸王洪らの投降を受け入れ、抵抗する偽官を討って蘭州を回復。三十日には隴州も攻略し、抵抗した知州・同知を退け、金の糧秣を焼却した。
  • 高宗は呉璘を陝西河東招討使に任じ、漢中より出兵して秦晋の遺民を慰撫するよう命じる勅を下した。民を殺さず、田畑を踏み荒らさず、婦女を掠めないよう厳命し、後漢の光武帝の故事を引いて仁政による平定を求めた。

十月 諸軍の会合と招討使の任命

  • 十月一日、劉錡が諸軍を盱眙軍に集結させた。劉錡は陝西河東各路招討使、成閔は京西・河北西路招討使、呉璘は東路招討使に、魏勝は海州知事、夏俊は泗州知事にそれぞれ任じられた。
  • 湖北京西宣諭使汪澈は、軍馬通過に伴う経総制銭の徴発が民を苦しめている実態を指摘し、州の会計を融通させて弊害を除くよう上奏、認められた。
  • 池州都統制李顕忠が正陽方面で金軍と遭遇、伏兵策により小規模ながら金将(郭薬師の子・韓常の子)を捕獲する戦果を挙げた。

親征の詔

  • 高宗は自ら親征する旨の詔を発し、金の背盟と暴虐を糾弾し、澶淵の役の故事に倣って敵を退けると宣言した。『遺史』は、この詔が事前に市中で内容が漏れ伝わっていたことを伝える。
  • 呉璘・李顕忠の戦功に奨諭の詔勅が下された。

契丹・西夏・高麗・渤海・韃靼への檄文

  • 劉錡・成閔・呉璘の連名で、契丹・西夏・高麗・渤海・韃靼などの諸国および金支配下の中原諸路に向けて檄文を発し、金の暴虐と背盟を糾弾、宋への協力・帰順を呼びかけた。あわせて収復した州県での軍紀厳守(殺戮・略奪の禁止)と、帰順者への優遇措置を定めた指揮を発した。