三朝北盟會編炎興下帙 紹興三十一年 1161年

正月十四日丁亥 異常気象と対金警戒の上奏

  • 十四日夜、雷雨・降雪・雷電が一夜のうちに相次いで起こる異常気象があった。侍御史江澈は『春秋』の故事を引き、これを陰盛(金の脅威)の兆しとみて警戒を説き、上流への統帥設置、李宝軍の海防強化、松江の守備充実、両淮の民の保護など十二の急務を上奏した。
  • 校書郎王十朋は劄子を上げ、対金防備の要は人材登用にあるとし、名望ある人物を積極的に用いるべきだと説いた。范仲淹の登用など宋の先例、蕭何・謝安ら歴史上の人材登用の成功例を引き、和議に安住して有能な人材を放置する現状を批判、旧宰執・侍従経験者らを召し還し、荆襄・江淮の防備を固めるべきだと論じた。
  • 校書郎馮方も劄子を上げ、金との和戦を巡る議論をまず一致させた上で防備策(守るべき要地・将・兵糧の選定)を定めるべきだとし、南朝梁の江陵陥落の故事を引いて油断を戒め、江淮の営田による民兵養成策を提案した。

紹興和議をめぐる忠臣・佞臣の記録(湘山樵夫紹興正論)

  • 紹興和議の際、和議に反対して左遷・処罰された者として、張浚(連州へ)、趙鼎(吉陽軍で薨去)、胡銓(新州編管、秦檜・孫近・王倫の斬首を求めた)、胡寅(新州)、張戒、常同、呂本中、張致遠、魏矼、張絢、曽開、李彌遜、晏敦復、王庶、毛叔度、范如圭、汪応辰、許忻、方廷宝、韓訓、陳鼎、洪皓、沈長卿、張燾、陳康伯、陳括、陳剛中らの名が挙げられる。
  • 一方、和議に迎合したり金への上表で阿った連南夫は落職放罷、李光も一時は和議に付き従ったが後に金の背盟により左遷された。