十一月 賀生辰使の交代
- 賀生辰国信使に予定されていた宗正丞鄭柟が素行不良(貪汚)を理由に罷免され、代わって徐嚞が金への賀生辰国信使に任じられた。
洪皓の死と行状
- 洪皓が敷文閣直学士致仕として没し、その行状(伝記)が記された。洪皓は建炎初年、金への使者として派遣される前から国事を憂い、朝廷に対して東南の形勢を重んじ建康を拠点とすべきこと、江北の守りを固めるべきことなどを説く上疏を行っていた。
- 建炎三年、金軍が南下する中、自ら使者となることを願い出て奉使大金軍前使に任じられた。金の陣中では金将の脅しにも屈せず節を曲げず、雲中に抑留され、さらに冷山に十年近く流された。極寒・欠乏の生活の中でも詩作を続け、憂国の情を吐露した。
- 冷山では金の陳王に用いられつつも、宋への忠誠を失わず、機会をとらえて宋の使者や書簡を通じ、金の内情(順昌の戦での金軍の動揺、河南放棄の可能性など)を密かに本国へ伝え続けた。北方に抑留された徽宗の后妃らの消息もひそかに報じた。
- 秦檜の和議路線に対しては直言を憚らず、経筵でも張浚の起用や江南民力の休養を説くなど秦檜と対立し、そのため饒州・濠州団練副使などに左遷された。抑留中に困窮した宋人捕虜や忠臣の遺骸を救援した逸話も伝わる。
- 紹興十三年に帰国を許され、以後も忠節を重んじる態度を貫いたが、秦檜との不和により地方官を転々とし、この年、致仕の身のまま没した。
十二月 張士襄の左遷と張浚への恩典
- 張士襄は前年の使命復命の内容に不実があったとして左遷され、南康軍の城下酒税監当に落とされた。
- 張浚には観文殿大学士の号が与えられ、その忠節を称える制詞が発せられた。制詞は、張浚が過去の勲功にもかかわらず久しく閑職に置かれていたことを惜しみ、褒賞を加える趣旨を述べる。
年末 金使の来訪