十月二十二日丙申 秦檜の死と遺表
- 秦檜が病死した。死に先立って上奏された遺表では、自らの半生(靖康の変での苦難、金からの帰国、宰相として和議を進めた経緯)を振り返り、高宗に対して健康を大切にし、金との和親を維持し、国是を動揺させず、邪党の台頭を防ぐよう説いている。
- 遺表の末尾には、董徳元・湯思退が秦檜の死の床でそれぞれ黄金千両を贈られた逸話が付されている。徳元は拒めば疑われると考え受け取り、思退は受け取れば後で難癖をつけられると考え辞退した。高宗はこれを知り、思退を秦檜の党ではないとみなした。
秦檜の専権(遺史曰)
- 秦檜は享年六十九、二度にわたり通算十九年在相した。執政に登用する者は常に無名で御しやすい柔佞の人物を選び、政務に関わらせず、百官・州県が政府に取り入る隙を与えなかった。
- 孫近・韓肖胄ら十数名の執政経験者は、いずれも一、二年のうちに些細な罪を着せられて罷免され、なお疑われて千里外の州軍に置かれ監視された。
- 性格は陰険で猜疑心が強く、賄賂を好み、四方の大帥・監司・郡守からの贈答が絶えなかった。広西経略の方滋が誤って名を消し忘れた贈物が露見した逸話や、生日ごとに珍奇な品が競って献じられた様子が伝えられる。
- かつて綦崇礼に命じて自らを弾劾する詔を起草させたが、後に宰相に復帰すると崇礼の死後、その娘婿の家からその御筆を回収・焼却させようとした顛末も記される。
- 晩年、宴席で息子秦熺が芝居に笑ったのを咎め、独り部屋に籠って黙坐した逸話から、後継への不安を抱えていたとの評がある。王循友が秦檜に九錫を勧めた話も伝わる。
靖康の変における秦檜(靖康小雅曰)
- 靖康小雅は、靖康二年に金軍が張邦昌の擁立を迫った際、御史中丞であった秦檜が異姓の擁立に断固反対し、欽宗の復位を求めて金軍に捕らえられ北送されたと記す。最後まで異姓擁立に与しなかったのは孫傅・張叔夜と秦檜の三人のみであったとし、その節義を「仁者は必ず勇あり」と称える。
秦檜の経歴と専横(中興姓氏録曰)
- 秦檜は建康の人。政和五年の進士で、靖康年間には御史中丞を務めた。金の張邦昌擁立に際しては連署を拒んだため世に忠節と称されたが、金軍に捕らわれ北へ連行された。
- 金にあっては徽宗のために和議を求める書を代筆し重用され、建炎四年に金軍が楚州を攻めた際、家族ともども船で南に送還された。途中、金の手引きと疑われ危うく殺されかけたが、金の将の計らいで無事鎮江に送り届けられた。
- 帰国後、宰相范宗尹の推薦で執政となり、宰相呂頤浩の後任として拝相。以後、和議路線を主導し、反対する趙鼎・胡銓・李光・張浚ら多くの重臣を次々と排斥、岳飛を無実の罪で殺害し、劉錡・張俊ら諸将の兵権も削いだ。
- 和議により歳幣・領土割譲などで金に譲歩する一方、自らの権勢は強め、子の熺・孫の塤を不正に科挙首席とし、一族を高位に就け、田宅を強奪するなど専横を極めた。享年六十四で没した。
秦檜家門のその後(中興姓氏録曰・続)
- 秦檜の死後、その専横を批判する上奏が相次ぎ、養子の秦熺をはじめ一族・党類が次々と左遷・処罰された。
鄭居中・鄭億年父子の逸話(秀水閒居録曰)
- 鄭居中は徽宗の妃鄭氏の縁者として重用され、崇寧・大観年間に宰相にまで昇った。息子億年は科挙で不正の疑いを持たれつつ及第し、要職を歴任した。
- 建炎四年、億年は金軍に捕らわれ、劉豫の偽斉政権に仕えて戸部尚書等を務めた。劉豫廃止後、河南地の返還とともに宋に帰り、秦檜(億年の従妹婿)の庇護のもとで資政殿学士に復職した。
- 秀水閒居録は、億年が逆賊劉豫に仕えて謀議に与った罪は軽くないとし、唐の安禄山の乱における張説の子・張均が誅殺された故事と対比して、億年の復官が徽宗以来の厚恩に背くものであると厳しく論難している。