三朝北盟會編炎興下帙 紹興十年 1140年

正月 梓宮奉迎使の交代

  • 李誼が工部尚書として梓宮・両宮奉迎使に任じられ、莫将が工部侍郎として副使となったが、李誼は出立を渋り、十日丙戌に落職放罷(免職)となった。李誼は当初「せいぜい落職放罷で済む」と楽観していたが、その通りの結果になったという皮肉な逸話が伝わる。代わって莫将が正使、韓恕が副使として金国へ赴くこととなった。

十五日辛夘 李綱の薨去

  • 林泉野記によれば、李綱は邵武軍の人。政和三年進士。宣和年間の京師大水の際に兵乱を予言し左遷されたが、靖康の変に際しては固守論を主張し親征行営使として金軍の攻撃を防いだ。宰相李邦彦の主和論により一時罷免されたが、太学生陳東らの伏闕上書と民衆の抗議により復職。金軍撤退後は種師道の追撃策を支持したが容れられなかった。
  • 建炎初年、今上(高宗)即位とともに尚書右僕射となり張邦昌一派の処断を主導したが、黄潜善・汪伯彦との対立により罷免され、以後は各地を転々としながら復職と左遷を繰り返した。紹興二年以降は潭州・洪州などの知事を歴任し、紹興十年正月、江州にて薨去(享年五十八、贈少師)。
  • 別伝(秀水閒居録)は、李綱と張浚の関係について批判的に記す。李綱はかつて蔡京の子蔡攸の党であったとし、富平の大敗の責任者である張浚が復権した際、李綱が財貨や書画を贈って取り入り、互いに利用し合った末、紹興七年の淮西兵変(酈瓊の叛乱・呂祉の死)を機に李綱が張浚を弾劾する書簡を公にして関係が破綻した経緯を、「勢利の交わり」として批判的に描く。
  • この書簡(李綱与張浚書)では、李綱は張浚の淮西方面での失策(呂祉の起用の誤り、二十万の兵民が北へ流出した事態)を厳しく批判し、宰相が一身に権力を集中させ他者と功を分かち合わない姿勢を、蕭何と韓信・張良の分業、房玄齢・杜如晦と魏徴・李靖の分業に対比して諫めている。

二月 人事と皇姪詐称事件

  • 劉錡が東京副留守、李顕忠が南京副留守、孟庾が東京副留守に任じられた。
  • 単州の染物職人朱従に拾われ養われていた孤児が、容貌が「趙家の少帝(欽宗)」に似ているとの噂から次第に自ら皇子を騙るようになり、宮中の作法や伝聞を装って周囲を信じ込ませ、単州の富商らを伴い行在へ護送される騒動となった。泗州で司法参軍孫守信が不審を抱いて取り調べ、欽宗に次子がいない事実が確認されると、詐称が発覚し、脊杖二十・瓊州牢城への配流という比較的軽い処分で決着した(大赦の恩典が絡み厳罰を免れた事情も記される)。世人はこの偽皇子を「趙麻鬍」と呼んだという。