三朝北盟會編炎興下帙 紹興九年 1139年

丙寅 新知鼎州王彦の卒去

  • 続觱の行状によれば、王彦は河内の人。政和五年、武芸により徽宗に取り立てられ、种師道に従い夏国征伐で功を挙げた。靖康の変では単身京師に馳せ参じ、河北招撫使司の都統制として黄河を渡り、衛州新鄉県などを回復したが、金の大軍に包囲され潰走。残兵七百を率いて太行山中に拠り、部下とともに顔に「誓殺金人、不負趙王」の刺青を入れて忠義を誓った「八字軍」を組織した。
  • 両河の義民を糾合し傅選・孟徳ら十九人の首領のもとに十余万の軍勢を築き、金軍の糧道を脅かし続けた。宗沢の要請で京師へ入り軍を留守司に委ねたが、宰相の忌避により重用されず、御営平寇統領官などを転任した。
  • 建炎四年以降は金・均・房州安撫使として四川の後門を守り、桑仲・李忠・董貴ら群盗を相次いで撃破。呉玠が和尚原で金軍を破った際には荊南方面で連携し、紹興初年には均房・襄鄧方面の防衛と屯田経営で成果を挙げた。
  • 岳飛がかつて王彦の部下でありながら軍令に背いた過去を持つが、王彦は寛大に許し、後に岳飛が自ら詫びに訪れた逸話も伝わる。紹興三年の金軍蜀侵攻時には饒風関での防戦に功があったが、自ら「敵の深入を防げなかった罪」として恩賞を辞退するなど謙譲の人柄で知られた。
  • 荊南府での屯田経営(山口の荒地開墾)は民間にも大きな利益をもたらし、朝廷から表彰された。紹興九年、知鼎州への異動途上で病を得て享年五十で没し、昭化軍承宣使を追贈された。厳格な軍紀と質素な生活、部下への深い配慮で知られ、士卒から篤い信頼を得ていた。

十月 河南府の兵馬編成

  • 孫睴が河南府路兵馬副総管に任じられ、酈瓊の旧叛軍や劉豫廃止後に放免された兵を募ったところ、着任前に定員が満ちるほど多数の応募があった。