七月 王倫、金国へ赴く
- 王倫・藍公佐が奉使金国のまま東京権留守を務めていたが、孟庾が東京留守として着任すると、倫は公佐とともに黄河を渡って北へ赴き、倫自身は留め置かれ公佐のみが帰還した。
金人、烏舍・蕭慶を族誅
- 金の詔(節要所引)は、開府儀同三司尚書左丞相の陳王希尹(烏舍)が法令改革を私物化し、皇帝を軽んじ党与を結んで専横を極めたとして誅殺したことを告げる。左丞蕭慶も連座して処刑された。
- 神麓記・松漠記聞によれば、烏舍は完顔氏の一族で、酒に酔って副元帥烏珠に無礼を働いた逸話や、皇帝を軽んじる言動が度々あったとされ、烏珠が密奏してその奸謀を暴いたことが誅殺の契機となった。烏舍の子や側近も同時に処刑された。
- 別伝(神麓記)は、烏舍が西京監軍として契丹人統軍伊都らの反乱謀議を偶然察知し、自ら鎮圧に当たった経緯を記すが、後にその専横自体が咎められて誅に服したとする。烏舍の子の一人(達勒達)が父を誤って傷つけたことを苦にして自死した挿話も伝わる。
- 遺史によれば、秦檜はかつて金にいた頃親交のあった達蘭を利用し、部下高益恭を使者に仕立てて達蘭に取り入ろうとしたが、この工作が金側に露見し、達蘭一族が誅殺される一因ともなった。
八月 人事と使節
- 蘇符が礼部侍郎として賀正旦国信使に金へ派遣された。鄜延路経略の闗師古が来朝した。
十一日戊午 金人、魯国王達蘭を族誅
- 節要によれば、達蘭は都元帥として権勢を振るったが、皇帝が燕京行台左丞相に降格しようとしたことに反発して叛乱を企て、北方へ逃れたところを烏珠配下に捕らえられ、祁州で処刑された。刑に臨み、達蘭は烏珠に「自分こそ開国の功臣であり、若主が讒言を信じて股肱を殺すなら禍は必ず汝に及ぶ」と言い放ったと伝えられる。
- 別伝(神麓記・遺史)は、達蘭が河南割譲を主導した本人であり、その動機は山東の実効支配を確立する意図にあったとし、劉豫廃立や河南返還も達蘭の主導によるものであったと分析する。また、達蘭が反乱の口実として「被擄逃亡者の捜索」を名目に諸路で過酷な取り締まりを行い、これが民の離反と一揆を招いたことも記される。
諸将の異動
- 呉璘が定国軍承宣使・秦鳳路経略使として行営右護軍を統べることとなった。辛永宗が来朝したが、旧器の探索にのみ熱心で民政を顧みず評判が悪かったと伝える。趙榮とその家族は金へ送還された。
- 十五日壬辰、胡世将が寳文閣学士・川陝宣撫副使に加階された。胡世将は自ら「騎射も辺事の知識も諸将に及ばぬ」と率直に述べつつ、文治による統率と公正な論功行賞を約し、呉璘以下の信頼を得た。
- 李世輔は神龍衛四廂都指揮使・護国軍節度使として「顕忠」の名を賜った。闗師古は行営中護前軍統制、夏国宰相王樞は夏国へ送還された。樓照は陝西宣諭から帰還したが、秦檜の威を借りて驕慢に振る舞い武臣を軽んじ、賄賂を求めたため民心を失ったと伝える。岳飛が来朝。張中孚が検校少保・寧国軍節度使に加階された。
十月 張所の名誉回復と張燾の成都赴任
- 九日丙辰、かつて金軍との戦いで援軍を得られず配流先で没した張所(建炎初の河北招撫使)の官職が追復された。
- 十一日戊午、張燾が寶文閣直学士・知成都府路安撫使に任じられた。皇帝との対話で、張燾は「国家安泰の閑暇な時にこそ政刑を正すべき」との詩経・孔孟の教えを引いて上奏し、皇帝はこれを座右の銘とすると称賛した。また四川の民が長年の軍役と苛政に疲弊している実情を訴え、都帥として現地の民政に直接関与する初の先例となった。