呉武安公功績記:呉玠の生涯と戦歴(詳伝)
- 呉玠は徳順隴干の人。曽祖父・祖父・父ともに義烈で知られる家柄に生まれ、若くして涇原軍に属し、夏国討伐や方臘の乱、河北の賊討伐で功を積んだ。
- 建炎三年、金軍の陝西侵攻に際し、熙河路副総管として彭原店で奮戦。上官の曲端との戦術方針の対立(曲端は平地戦を避け十年の訓練を主張、呉玠は高地に拠る持久戦を主張)から一時左遷されたが後に復職した。
- 富平の戦い(紹興元年)では、都統制の方針(平地布陣)に反対し高地布陣を進言したが容れられず、宋軍は金の奇襲で大敗、五路が陥落した。呉玠は散関東の和尚原に拠り、兵糧・城柵を整えて金軍を寄せ付けず、「敵が我を破らねば進めぬ」との持久策を貫いた。
- 紹興二年、金将黙哷・和尼らの侵攻を撃退。同年冬、金の元帥四太子が渭水に浮橋を架けて大軍で迫った際、呉玠は弩兵の交代射撃と伏兵(神岔峪)を組み合わせて金軍を潰走させ、将雅格大貝勒ら三百余人・甲士八百六十人を捕獲、金軍の大寨を夜襲して四太子の全軍をほぼ壊滅させる大勝を収めた。
金将薩里罕との書簡往復
- 紹興三年、金は和尚原突破を諦め、迂回して漢中・蜀を衝く作戦に転じたが、呉玠は倍速の行軍で先回りし、饒風嶺で六昼夜の激戦の末に金軍を撃退した。
- 金の薩里罕は正面攻撃を諦め、呉玠に降誘の書簡を送ったが、呉玠は「中外の分は天下の大義であり、太祖以来の宋の正統に二心を抱くことはあり得ない」と毅然と拒絶する返書を送った。書中では、契丹・渤海との旧怨を利用した離間策も見抜き、金の兵站・民心の疲弊を指摘して逆に警告する内容であった。
仙人関の戦い(紹興四年)
- 紹興四年二月、金は薩里罕・四太子を総大将とし全軍を挙げて仙人関を攻めた。呉玠・呉璘兄弟が指揮する宋軍は、砲・神臂弓・撞竿・雲梯対策などを駆使して数日にわたる猛攻を凌ぎ、統制官楊政・田晟らの奮戦もあって金軍を撃退。金は千戸・万戸級の将を含む万余の死傷者を出して敗走した。皇帝はこの功を「漢の趙充国に比すべき保勝の将」と讃える親札を送った。
- 以後、金は蜀への直接侵攻を断念し、呉玠は開府儀同三司・四川宣撫使に至った。屯田や賦役軽減など民政にも尽力し、紹興七年の劉豫廃立時にも金の動向を正しく予測していた。
呉玠の薨去と評価
- 紹興九年、和議成立の功により開府儀同三司・四川宣撫使に加階されたが、既に重病であり、六月二十一日己巳に軍中で没した(享年四十七)。皇帝は視朝を止めて哀悼し、少師を追贈、弟の呉璘が喪を郷里の徳順軍水洛城に葬った。
- 呉玠は兵を私せず、功賞は公論に基づき、蓄財をせず住居さえ質素であったと伝えられる。用兵の要諦は「敵の弓矢の劣位と我が兵の持久力不足を見極め、堅甲と地の利で敵の鋭気を削ぐ」ことにあったと弟呉璘が語っている。
- 末尾の付記(林泉野記)は、呉玠の戦歴の要点(和尚原・饒風嶺・仙人関の各戦、雅格貝勒らの捕獲、四太子の敗走)を簡潔にまとめている。