二月 陵寝参拝の使と旧臣の召還
- 趙士訸が朝陵使、兵部侍郎張燾が副使に任じられ、河南の祖宗陵寝を参拝することとなった。呂頤浩・陳規・仇愈・張孝純・孟庾が行在に召された。
張孝純の経歴
- 張孝純は太原知府として靖康年間に金の猛攻を三年近く支え続けたが、ついに開城して降伏し、劉豫政権下では左丞相を務めた。皇帝は密かに帰順を促す詔を送ったが、孝純は動かず、劉豫廃止後も金に留め置かれた。朝廷が改めて召還すると、孝純は自ら恥じて烏珠に致仕を願い、徐州で余生を送ることとなった。
- 別伝(節要)によれば、孝純は元帥尼堪の前で臣従の礼を拒み、金国大臣が宋国大臣を拝する道理はないと言い放って屈しなかった逸話が伝わる。故郷への帰還を許された経緯や、宇文虚中の送別詩なども記録されている。
樓照、翰林学士に
- 樓照は金使張通古・蕭哲の応対で用いられた文書を多く手がけ、その功により翰林学士に任じられた。
吉州の布衣、周南仲の上書「五不可・三急務」
- 前年に上書して以来皇帝の信任を得ていた周南仲は、再び長文の上書を提出。「雪辱を望むなら和議を主としてはならない」「万全を期すなら好機を逃してはならない」「中原奪回を望むなら東南に安住してはならない」「軍を統御するなら将帥を明確にすべき」「賢才登用のためには公論を廃してはならない」の五点(五不可)と、「国柄(政治の実権)を重んじる」「辺備を蓄える」「守令(地方官)を選ぶ」の三急務を提言した。
- 金への不信を、女真建国以来の裏切りの経緯(盟約破棄、青城の変、劉豫擁立と廃立)を辿って論証し、機を逃さず北伐すべきと主張。宰相の頻繁な更迭や党派対立(趙鼎・張浚両派の争い)、伊川学派偏重による人材登用の弊害、資格偏重で武人を軽んじる人事の弊害を厳しく批判した。
- 財政面では、両河・五路・山東を失い東南のみで財源を賄う困難さを指摘し、地方官の腐敗(賄賂による人事、密告禁止の悪用)を、自らの郷里虔州の実例(清廉な安福令陳定の左遷と、秦檜の縁故である廬陵令王昌の不問)を挙げて批判した。歐陽脩の文名や楊邦乂の忠死を引き、自らも死を賭して直言する覚悟を示した。
人事
- 李綱が知潭州、朱勝非が知湖州に任じられた。
- 趙鼎は、秦檜との確執(餞別の席への欠席)から、和議成立を機に周秘に代えられ、知泉州へ転任させられた。
三月 呂頤浩の致仕
- 秦檜がかねて呂頤浩を憎んでいたため、西京留守として遠地に配された頤浩は病を得て致仕を願い出、少傅・鎮南軍節度使・成国公として致仕が許された。制文では、頤浩の功績を称えつつ丁重に送り出す体裁が取られた。頤浩は台州に帰った。