十二月一日癸丑 許忻・林季仲の和議反対上奏
- 吏部員外郎許忻は、金の詔諭が事実上の臣従要求であり、これまで金が和議の名で幾度も朝廷を欺いてきた前例(靖康の講和破棄、粛王拉致、二帝拉致後の張邦昌擁立など)を挙げ、屈膝すれば大臣の入れ替え・将の再編・際限ない要求に応じ続けることになると警告した。皇帝に引見されたが、後に外任を望み荊湖南路転運判官となった。
- 三省検正諸房文字の林季仲も、「乳彘(子豚)も虎に立ち向かう」との比喩を用い、憤りの気概があれば劣勢でも戦えると説き、天命任せではなく人事を尽くすべきだと主張した。
尹焞の反対論
- 徽猷閣待制・提挙万寿観兼侍講の尹焞は、疾により出仕できぬ中で上疏し、金の脅威が続く限り和議への安易な期待は国勢を損なうとし、「父母の讐は共に天を戴かず」の礼を引いて反対した。
- 尹焞は秦檜にも書簡を送り、和議によって金がますます強大化し宋がますます衰弱するとし、自治(賢臣の登用と賞罰の適正化)こそ上策であると説いたが、秦檜は「小智を用いて義を害してはならない」との一節に強い反感を示した。
金使との対面礼をめぐる混乱
- 金使張通古が皇帝との対等の礼を求め、詔書への北面拝礼を要求したため、朝議は連日紛糾した。秦檜が待漏院に控え、玉輅・儀仗を整えて出迎える段取りを主導し、最終的に通古らは横柄な態度のまま入城し、無礼な言辞の詔を読み上げたが、皇帝はこれを容認し厚く賜物を与えた。皇帝が海道避難中に得た刻字職人舒通の白字印章が、この金使来訪の場で御璽に用いられた逸話も付記される。