三朝北盟會編炎興下帙 紹興八年 1138年

王庶、会議罷免を重ねて乞う

  • 王庶は都堂で金使烏凌阿思謀(於陵思謀)と面会した際のやり取りを改めて上奏し、思謀の詭弁(「王倫の懇請で来た」「地は求められぬが金主が返してくれるだけ」)を信用できないと繰り返し訴えた。金は疲弊・内部対立から時間稼ぎの和議を持ちかけているに過ぎず、応じれば取り返しのつかない禍を招くと警告した。

人事の動き

  • 李光が参知政事、張守が知洪州兼江西安撫制置大使、劉一止が起居郎に任じられた。劉一止は紹興二年以来の直言で知られ、皇帝の信任も篤かった。

王庶、和議文書への署名免除と辞職を重ねて願う

  • 王庶は複数の劄子を上奏し、晋の武帝が呉討伐に反対した賈充を後に重用した故事、唐の憲宗が蔡州討伐に反対した李逢吉を退けた故事を引きつつ、和議への反対が結果的に的中したことへの責任を取り辞職を願った。
  • 別の劄子では、金・宋の国力差を冷静に分析し、和議は金にとって「敵の内紛を利用し時間を稼ぐ策」に過ぎないとし、講和・遣使・用兵の順に金にとって有利な選択肢を序列化して警戒を促した。
  • また加齢・持病を理由に度々辞任を願い出たが許されず、宋朝二百年の歴史と靖康の恥を振り返りつつ、和議への安易な妥協が社稷を危うくすると繰り返し訴えた。

十二月一日癸丑 和議を戒める詔と胡銓への処分

  • 皇帝は「二帝の蒙塵を悼み、母兄の帰還を願うがゆえに屈己を厭わない」との詔を発し、樞密院編修官胡銓が上書で朝廷を「凶悖」と非難したことを問題視し、胡銓を厳しく戒めた(ただし処刑はせず)。
  • 韓肖胄・劉岑が行在に召され、孟庾が厳州知事となった。

金使張通古の来着と礼制をめぐる紛糾

  • 金は張通古を「江南詔諭使」、蕭哲を「明威将軍」として派遣し、朝廷は范同を接伴使とした。張通古は皇帝に対等の礼を求め、皇帝が金の詔書に対し北面拝礼するかどうかで朝議が紛糾し、通古はしばらく引見されなかった。
  • 禮部侍郎曽開は、金使が道中で「王倫が百拝して懇願したから来た」と述べ、随行の三節人従が横柄に振る舞っていることを報告し、王倫が朝廷の意を曲げて金に哀訴した結果、逆に金に足元を見られていると批判。宰相執政の対応が割れていることを問題視し、侍従・両省官による公議を求めたが、聞き入れられず、曽開は禮部侍郎を辞して宮観に退いた。