三朝北盟會編炎興下帙 紹興八年 1138年

二十一日癸夘 侍従官の連署上奏

  • 兵部尚書張燾は侍従官を率いて連名で上疏し、「聖人は衆と欲を同じくして事を成す」として、士大夫・民庶・軍士がいずれも屈己講和に不可としている以上、拙速な決定は避けるべきと訴えた。梓宮・淵聖・母后・宗族・土地がまだ何一つ得られていない段階での屈膝は、王雲・劉晏の変のような事態を招きかねないと警告した。皇帝は「忠を尽くす言葉だ」と評しつつも、意志を変えなかった。

館職官の連名上疏

  • 秘書省著作郎の胡珵、著作佐郎の朱松・張明・凌景夏、正字の范如圭らが連名で上疏し、魏の安僖王が魯仲連の言を用いて秦を帝とする議を退けた故事、楚の懐王が張儀に欺かれて衰亡した故事を引き、金の和議提案は信用できないと論じた。金は劉豫の廃立を利用して虚勢を張っているにすぎず、真に和を欲するなら態度に矛盾があるはずと分析し、王倫を「奸邪の使者」、秦檜を「管仲にも劣る」と厳しく批判した。

勾龍如淵、御史中丞に

  • 秦檜は屈己講和を独断で進めようとしたが反対論が噴出し窮した。起居舎人の勾龍如淵が「台官を選んで反対派を退けよ」と献策し、秦檜はこれを容れて勾龍如淵を御史中丞に抜擢した。

二十五日丁未 胡銓、秦檜・孫近・王倫の斬首を乞う

  • 枢密院編修官胡銓は上書し、王倫を「市井の無頼」と断じ、金への屈膝が劉豫と同じ属国化を招くと痛烈に批判した。祖宗の天下・帝位を金の藩臣の地位に貶めることは、童子ですら拒む恥辱であるとし、これまでの和議交渉がことごとく反故にされてきた前例を挙げて金の言を信じるべきでないと論じた。
  • 秦檜については、心腹の大臣でありながら陛下を石晋(後晋)の轍に導こうとしていると批判し、曽開らの正論に対し「侍郎は故事を知っているが檜は知らないとでも言うのか」と怒鳴った逸話を紹介。参知政事の孫近については、秦檜に唯々諾々と従うのみで実権を発揮していないと酷評した。
  • 胡銓は、秦檜・孫近・王倫の三人の首を斬り市中に晒すことを求め、聞き入れられなければ東海に身を投げて死ぬ覚悟であると結んだ。この上書は市中で数日にわたり喧伝されたが、秦檜は上表して「無罪」とされ、胡銓は罷免された。

王庶の和議反対論(六劄子)

  • 樞密副使王庶は連続して劄子を上奏した。金の侵攻が十年来続いた末に、紹興甲寅・丙辰の両度の親征でようやく国勢が持ち直したにもかかわらず、金が劉豫廃止後に急に和議を持ちかけるのは、契丹の復興を警戒し内応を恐れているためだと分析し、淮・河いずれを境界とするにせよ、荒廃した土地の維持には莫大な負担が伴い、金の思う壺になると論じた。
  • 岳飛・韓世忠も今年出兵しなければ節を返上したいと述べていることを紹介し、金使の要求(梓宮返還を名目とした過大な要求)を見極めて対処すべきと説いた。
  • また、金使に対しては諒陰(喪中)を理由に引見を避け、大臣間の協議に留めるべきとし、王倫が私利のために和議を急がせていると批判。最終的に病気を理由に自らの罷免も願い出た。