匿名上書(姓名欠):淮西の変を教訓とする軍制改革の建言
- 上書者(姓名不詳)は、皇帝に対し近年の上奏が空文に流れ実効を欠くと批判し、淮西の一件を例に大臣の失策を論じた。劉光世の軍を張浚の建策で呂祉に委ねたが、呂祉は驕慢で酈瓊らを疑心暗鬼に追い込み、朝廷が張浚を淮西宣撫使、楊沂中を制置使として酈瓊らの上に置いたことが叛乱を招いたと分析した。
- 中興の功臣として周の張仲・尹吉甫、漢の寇恂・鄧禹、晋の王導・謝安、唐の李光弼・郭子儀を挙げ、当代では張浚のみがこれに近いが、他の大臣に天下の責を負う気概がないと批判。趙鼎は器はあるが才が伴わず、呂頤浩・沈与求も評した。
- 巡幸に伴う地方の浪費や、淮西の防備が劉光世罷免後は薄弱になっている点を指摘し、建康駐蹕の危うさ、金陵・荊襄・関中を巡る地政学的な要害論を展開した。
- 宰執人事が縁故によって固定化し、有能な人材が登用されない弊害を批判。
- 具体策として、諸路に「都督」を置くことを提案。淮西は呂頤浩を都督・張浚を副として楊沂中を配し、傅松卿・史願を参謀参議に、淮東は孟庾を都督・韓世忠を副として劉寧止・韓求を、襄陽は秦檜を都督・岳飛を副として劉岑・蔣粲を、川陝は趙鼎を都督・劉光世を副として折彦質・王燮・馬擴を配する案を示した。
- 明堂の大礼を機に諸大臣を集め、漢の高祖の故事にならい盟主として張浚を大都督に任じ、軍民の実情を自ら把握するよう求めた。
- 末尾では、下級兵士の給与が過酷に低く抑えられている実態(一人一日銭百・米二升半で一家四口を養う困窮)を具体的に述べ、諸軍の兵員数の虚偽申告が将官から宰執にまで上下で隠蔽される構造を批判し、都督設置による情報疎通の必要を訴えた。
十一月 劉錡の来朝と臨安再幸の決定
- 廬州知事の劉錡が行在に来朝した。
- 皇帝は一旦建康駐蹕を命じていたが、淮西で酈瓊の叛乱が起こり張浚が盱眙から建康へ退くなど情勢が紛糾したため、王仲薿の復官・辛次膺の弾劾などをめぐり主戦・主和の論が定まらず、結局翌春に臨安(浙西)へ再び還ることが詔された。岳飛は江州へ退軍した。
十七日乙巳 烏珠、劉麟を武城で捕らえる
- 劉豫は朝廷の北伐を聞き金に援兵を求めたが、金は酈瓊の投降で豫の勢力が強大化することを警戒し、豫の廃立を内々に決定。豫の要請に応じるふりをしつつ、斉軍を金の統制下に置く条件を出させた。
- 金は豫・麟父子の油断に乗じ、京東の兵糧・輜重を集めさせたのち、劉麟を単騎で滑州に呼び出し、武城で数百騎の護衛ごと包囲して捕らえた。