参知政事王綯の対
- 王綯は前年秋以来病により祠官として崑山に寓居していたが、詔問に応じ四事について答えた。攻戦の利は士気を作ることに、守備の宜は淮甸を固めることに、措置の方は長久の計を経ることに、綏懐の畧は民を恵むことにあるとした。
- 士気を作る:連戦連勝の後は将士が驕り気が緩みやすいとし、いま新春の勝報に沸く民心を活かしつつも、諸将には兵を半ば淮南の要害に分置し、間諜・斥候を怠らず常に敵の再来に備えさせるべきとした。また金軍が承楚・濠寿への出没を繰り返すのは、呉が楚を疲弊させた「彼出れば帰り、彼帰れば出る」策に似た誘導策かもしれぬと警戒を促した。
- 淮甸を固める:漢高祖が関中を根拠に滎陽を死守して天下を得た故事、苻堅の淝水の敗戦、魏太武帝の広陵侵攻など晋宋五朝が淮甸を屏蔽とした先例を引き、深追いによる遠征(漢が彭城で大敗した例)を戒め、まず淮甸を安固にしてから中原経営に進むべきとした。また通泰の塩利(歳八百万緡)を敵に奪われれば長江の防衛線自体が崩れかねないと警告した。
- 長久の計―駐蹕の地と統御の権:中原回復後は汴洛への遷都が理想としつつ、当面の駐蹕地としては建康が最適とし(孫権・東晋の先例)、ただし淮甸の防備が固まってからでなければ時期尚早であるとした。また君主が将帥を、将帥が士卒を統御する体制(韓信の「善く兵を将いる」対「高祖の善く将を将いる」の故事)を確立すべきと説いた。
- 民を恵む:金・偽斉支配下の民も本来は宋の民であり、投降者を寛容に扱う姿勢が重要とし、晋の羊祜が呉の民に慕われ「祜」と呼び捨てにされなかった故事を引いた。親征以来、民が進んで税を納めるようになった実例を挙げつつも、蘇秀等の州で軍需の蓆・竹木を民から強制徴発する負担が重いことを指摘し、官給に改めるべきだと提言した。
樞密院韓肖胄の対
- 韓肖胄は、紹興二年に自ら「劉豫を討つべし」と論じた過去の上奏を振り返りつつ、使者として和議に携わった経験も踏まえ、和議は一時の権宜に過ぎなかったとした。
- 攻戦の利:韓世忠らの軍が多く川陝出身の精鋭で構成され金軍にも畏れられていること、諸道並進の犄角の勢いを作れば敵は自壊すること、光武帝が新莽への民の怨みを追い風に中興した故事、田単が燕への民の怒りを煽って即墨で逆転した故事を引き、劉豫父子の苛政ですでに民心が離れている今こそ好機だとした。
- 守備の宜:金軍の出没が伍子胥の楚疲弊策に似た策略かもしれぬと警戒し、淮南の防備(苻堅淝水、魏鄧艾の寿春屯田、周世宗の淮南攻略など)の重要性を説いた。金の使者潘致堯・王翊が「淮地に屯戍を置くな」と要求してきた経緯に触れ、拒絶して要害を固守すべきとし、現状の淮東西宣撫使の兵力が薄く偏裨に頼っている弱点を指摘、韓世忠・劉光世の軍を後方の鎮江・太平から淮南前線へ移すべきだが、個々の兵が勝手に越境することは厳罰で禁じるべきとした。
- 措置の方:紀律の徹底(李晟が秋毫を犯さず京師を回復した故事)、兵站の確保(諸葛亮の木牛流馬による補給の限界、関羽の糧道断絶による敗死の教訓)、統一指揮系統の確立(唐の九節度使軍が指揮系統の乱れで潰敗した例)を説き、まず精鋭一万規模の中核軍を編成し統一の号令のもとで諸将を動かすべきとし、韓信・諸葛亮・王猛がそれぞれ主君との事前の戦略合意のもとで功を成した例を引いた。
- 綏懐の畧:羊祜・陸抗、卓茂・魯恭のような徳望ある人物を辺境の守帥・県令に登用し、帰順者には官位・金帛・田土を与え、投降した旧北方出身の兵を使って敵地への招諭工作を行うべきとし、諸葛亮が渭水のほとりで民と共に耕作させた故事を引いた。
- 結びに、金軍内でも厭戦気分が広がりつつあるが、尼堪・烏舍・高慶裔ら強硬派がなお主戦を主張していると聞くとし、金の内紛の兆しを見据えつつ、和議の使者往来は続けながらも機を逃さず勝機を活かすべきだと説いた。「得ては失うを慮り、勝ちてはいよいよ懼れる」との戒めを引き、臥薪嘗胆の志をもって叛逆の残党を掃討し民を救い、宗社の大憤を雪ぐべきだと結んだ。