三朝北盟會編炎興下帙 紹興七年 1137年

李邴の対(続)―講軍制・訂遣使・降勅牓

  • 講軍制:李邴は、樞密院直属の兵、州郡直属の兵とは別に存在する「廂軍」の弊害を指摘した。本来の武備を担わぬ廂軍が雑役に流用され、私的な人員水増しの温床となり財政を圧迫している現状を憂い、廂軍の三分の二を削減しその予算で禁軍を増強、少壮の希望者は禁軍へ転じさせ、老弱は民籍に戻すという段階的な改革案を示した。
  • 訂遣使:金は和戦両様の術策で契丹や宋を疲弊させてきたとし、和議に実効はないが、二聖が金にある以上礼儀上使者を送ること自体は已むを得ないとした。ただし過去の国書・使者の記録が散逸し交渉の一貫性を欠いているため、専任の官(古の「行人」のような)を置いて先例を体系的に管理すべきと提言した。
  • 降勅牓:漢高祖が項羽の十罪を、唐高祖が王世充の悪を数え上げた故事に倣い、劉豫父子の僭逆の罪を勅牓で公にし、江北の士民に金と結んだ逆賊の末路を知らしめるべきとした(国体を憂うなら大将名義の檄文でもよいとした)。

綏懐の畧五箇条

  1. 通徳意:登萊沂宻兖など山寨に拠る豪族に密使を送り、帰順すれば爵秩を与えると伝え、朝廷が山東の民を忘れていないことを示すべきとした。
  2. 先賑恤:江北から帰順する官民に食糧・住居・官職の権摂などを与え、東晋が南渡の遺民のために僑置郡県を設けた故事に倣うべきとした。
  3. 通関津:帰順者の道中の安全を確保するため、沿江州郡に護送・渡河の手配を命じ、不正な取り立てを厳罰化すべきとした。
  4. 選才能:帰順した官吏の才を単に爵禄で遇するだけでなく、実際に登用し力を発揮させるべきとし、曹操が許攸を、李愬が李祐を用いて成功した故事を引いた。
  5. 務寛貸:晋の羊祜が呉との対峙で徳信を示し、降者を厚遇して人心を得た末に呉を滅ぼした故事を引き、投降者やその土地の民には殺戮でなく寛容をもって接するべきと説いた。

徳政こそ根本―天人相応の理

  • 李邴は、これら諸策の根本は「徳政」にあるとし、天子と天の関係を父子の情に喩え、正月朔日の日食などの災異を天の戒めと受け止め、誠意をもって政を正すべきだと説いた。かつて滕康の上疏が皇帝に評価され抜擢された例を引き、形式的な避正殿・求直言だけでなく真の誠意が必要だと強調した。
  • 親征の詔で皇帝が「二度と江浙の民を戦禍に晒さぬ」と誓ったことを称え、勝利の折には過去の過ちを天地宗廟に告げ、民に謝すべきだと提案した。
  • 臣下の登用については、爵禄・刑罰のみに頼らず、漢の子房・鄧禹・孔明・房喬のような佐命の臣を誠意で遇すべきとし、また漢武帝・魏武帝の「才ある者に細瑕を求めず用いよ」との詔、范仲淹が元昊の乱の際に人材の出自を問わず登用した故事を引き、些細な欠点にこだわらず超卓の才を積極的に用いるべきだと結んだ。

参知政事張守の対

  • 張守は、金軍撃退を喜ぶだけでなく、土地・民を得ても保持・安撫できねば意味がないとし、四事のうち「措置」を最優先とした。淮を守ってこそ建康に駐蹕し中原経営に進めるとし、軍旅・軍食の二点を挙げた。
  • 軍旅:神武中軍を行在防衛に専念させ、他は淮東・淮西・鄂岳荆南の三路に分屯、麾下の将を五千規模の統制に抜擢して朝廷の号令を直接軍に届かせる体制を提案(大将の権限集中による将卒の私兵化を防ぐ狙い)。
  • 軍食:二浙の粟を淮東に、江西の粟を淮西に、荆湖の粟を鄂岳荆南にそれぞれ充て、漕船の私的抑留・横流しを厳しく取り締まるべきとした。将士の秋毫の侵掠を戒める詔を発し、民の帰郷・戸口の回復状況で諸将の功過を評価する仕組みも提案した。
  • あわせて、去秋の敗北で金は容易に南下できぬと悟ったはずだが、次に来るときは総力を挙げてくる恐れがあるとし、なお攻戦の策に留意すべきと述べ、最後は召公・宣王の故事を引いて修徳修政こそ根本であると、先の上疏と同旨の結論で締めくくった。

顔岐(黄門侍郎)の簡潔な対

  • 福清県で正月十五日付の勅を二月二日に受け取った顔岐は、簡潔に四事へ答えた。攻戦の利は賢将の登用に、守備の宜は信賞必罰の徹底に、措置の方は号令が妄りに動かぬことに、綏懐の畧は軍民がそれぞれ生業に安んじることにあるとした。
  • 皇帝の巡幸に伴う民の負担にも配慮し、沿道の州県に民を騒がせぬよう戒めるべきと述べ、末尾に宋庠の箴言「損之又損、天下は仁に帰す」をもじり「忍之又忍、天下は仁に帰す」との言葉で結んだ。