三朝北盟會編炎興下帙 紹興七年 1137年

汪伯彦の対―「決戦将軍」と「万全元老」の問答

  • 汪伯彦は、舜・湯・漢高祖・光武・孫権・蜀先主らがみな臣下に諮問して大業を成した故事を引きつつ、自らの意見を「決戦将軍」(即座の追撃を主張する立場)と「万全元老」(慎重な準備を説く立場)の架空の問答形式で献じた。
  • 決戦将軍は、皇帝親征により気勢・地勢・国勢の三勢を得て敵を潰走させた今こそ、淮を越えて敵の巣窟を衝くべきだと主張する。
  • 万全元老はこれに対し、魯荘公・僖公が敵を深追いして『春秋』に危ぶまれた故事、諸葛亮の「戦地を得ざれば大利を見ても進まず」の教えを引き、深追いはかえって民を疲弊させ兵站を破綻させると諭す。まず善後の四策―撫綏(民心慰撫)・措置(戦略配置)・守備・攻戦―を順序立てて講じるべきだと説く。
  • 撫綏:金軍の兵の大半は両河の民や州兵で金人自体は一割に過ぎず、投降者・怨みを抱く者を厚遇し、淮南の田や官職を与えて招けば、敵をもって敵を攻める利がある。関中で叛いた師古・孔彦周らも招けば帰順しうるとした。
  • 措置:形勢を得ることが立国の要とし、寿春・真揚廬濠に将を配して江表の藩籬とし、荆南(三国の要衝)や巴蜀・三秦の防備も固め、都督府に荆襄の警戒と川陝への牽制を命じるべきとした。
  • 守備:晋が秦に対し塁を固めて持久した故事などを引き、才能ある者を用い信賞必罰を徹底し、財を治め屯田で軍糧を助けるべきとした。
  • 攻戦:伐謀を上策とし、彼我の情勢を見極めた上で機に乗じて動くべきとした。
  • 元老は、この四策には撫綏を先とし措置・守備・攻戦の順に進むべき序があるとし、拙速な追撃より善後の大計を優先すべきだと論じ、将軍はこれに服し礼を尽くして退いた。汪伯彦は最後に、自らの考えは浅智に過ぎず、洪範の「大同」(心・卿士・庶民・卜筮すべてに諮る)の法に倣い、朝廷の衆議と廟算によって決すべきだと結んだ。

参知政事李邴の対―戦陣の利五箇条

  • 李邴は、親征以来のわずかな期日で敵を退けた実績を踏まえ、戦陣の利として五箇条を挙げた。
  • 出軽兵:関陜は進取の地、淮南は保固の地であり、両者は表裏一体。淮南の勝機を活かすには関陜での牽制も欠かせず、京東方面の地理に通じた牛皋・王進・楊主・史康民らに小勢を預けて出撃させ、現地の民心を試みるべきとした。
  • 務遠略:光武の昆陽、苻堅の淝水の例を引き、敵が驕り油断している今こそ、関陜の諸将に大勝を求めず小勝を積む慎重な策を命じ、呂頥浩・李綱のいずれかを大臣として派遣し関陜経営に当たらせるべきとした。
  • 謀将帥:兵の強弱・士気の高低は君主の率い方次第であるとし、韓世忠・劉光世・張俊・呉玠・岳飛に続く智謀忠勇の将を各軍から推挙・登用し、専任の部隊を任せるべきとした。
  • 責成功:功臣に成算を授けて自由に戦わせ、晋の祖逖が戴若思の掣肘で憤死し功業が潰えた故事を教訓に、重臣を戦線に送り将の権を削ぐことのないようにすべきとした。
  • 重賞格:漢高祖が項籍を斬った下級の将にまで王爵級の恩賞を与えた故事(楊喜ら四人の例)を引き、功に応じた明確な賞格を予め定め、天下に周知すべきとした。

守備の宜五箇条

  1. 固根本:建康を根拠とすべきだが、深入りすれば兵站が破綻する恐れがあるとし、晋の祖逖のように屯田自給で軍を維持できる人材(いれば淮南を委ねる)がいなければ、まず小勢による牽制にとどめるべきとした。
  2. 習舟師:福建で建造中の戦船七百隻の計画を進め、漢の伏波・楼船将軍の故事に倣い、水軍を専管する官を設け、長江の要地に配置して威容を示すべきとした。
  3. 防他道:金軍が正面からの再侵に懲りて、登萊から海路で江南を、あるいは武昌から渡江して江池方面を突く迂回策を取る可能性を警戒し、あらかじめ両道への備えを講じるべきとした。
  4. 講遺策:賀若弼が陳を欺いた計略、魏を欺いた「疑城」の故事などを引き、敵を欺く奇策をあらかじめ講じておくべきとした。
  5. 列屯戍:長江数千里の防備には要所(咽喉・心腹に当たる地)を選び重点配備すべきとし、福建で范汝為の乱鎮圧後に申世景を駐屯させ長く治安を保った例を挙げた。

措画の方―親大閲・補禁衛

  • 李邴はさらに措置の方策五箇条(親大閲・補禁衛・訂使事・講軍制・降勅牓)を挙げた。
  • 親大閲:親征の成功を踏まえ、秋冬に諸将を集めて大規模な閲兵・訓練を行い、優れた者には金帛・官爵で報いるべきとした。
  • 補禁衛:北軍(禁衛)こそ天子の権威の根本であるのに、建炎以来疲弊し人数も減っていることを憂い、韓信の「天子自ら将たれば十万」の故事を引いて、忠実な将を選んで禁衛を補充・強化すべきとした(訂使事・講軍制・降勅牓の詳細は後段に続く)。