正月 張俊、諸将を配置し視師す
- 皇帝は臨安府に駐蹕。劉豫が中原再侵を企てる中、張俊は自ら辺塞に赴き諸将を配置した。楚漢が殽澠の間に駐兵し楚が国境を越えられなかった故事、太原未陥落時は尼堪も渡河しなかった先例を引き、大軍を前線に構えれば敵は迂回して深入りできないと説き、逆に「前後の空隙を敵が突く」と憂う議論には「敵の糧道・帰路も考慮すれば無用の懸念」と反論した。
- 江上での諸将会議で、韓世忠は承楚を拠点に維揚を窺い、劉光世は合肥に屯して北軍を招撫し、張俊自身は建康で練兵の上で旴眙へ進み、楊沂中は精兵で後詰めとし、岳飛は襄陽に屯して中原を窺う配置が定まった。皇帝は張俊に御書と『裴度伝』を賜い、諸将のうち韓世忠の勇猛と岳飛の沈勇を特に頼みとした。
- 世忠が楚州から偽地に入り叛賊を招撫した功に皇帝は詔で応え、岳飛にも陳蔡方面への牽制出撃を命じたが、折しも岳飛は母の死により廬山へ帰り服喪、張俊は御筆による督促を求めて岳飛を軍務に復帰させた。張俊はまた、建康こそ中興の根本であり臨安は偏狭で人心を引き締める力に欠けるとして、秋冬に皇帝が建康に臨み三軍を撫すべきと上奏した。
二月 人事と川陝将士への撫問
- 諸路安撫使が営使を兼ねることとなった。折彦質は僉書樞密院事となったが特段の建言はなかった。
- 尚書左司員外郎范直方が川陝宣諭使として呉玠麾下の将士を慰問、紹興二年の先例に倣い治績・清廉の官吏を調査・薦挙する任にあたった。
- 皇帝は川陝宣撫処置使司へ詔を下し、金の侵攻で已むを得ず陥没・脅従した将士・民の罪を問わず、帰順・立功した者を厚遇し、租賦・征役を免除するなど寛恤の措置を布告した。呉玠・王彦・関師古にも辺境防衛の労を労う勅書が賜られた。
十六日甲寅・十七日乙卯 韓世忠、宿遷県で金軍を破る
- 韓世忠配下の岳超は淮陽軍への進軍途上、宿遷県で金の斥候八十騎と遭遇、寡兵ながら敵陣に数度突入して退けた。
- 翌日、世忠自身が淮陽軍城下へ進む際、部将呼延通が先鋒となり、金の猛将雅格貝勒と一騎討ちの激闘となった。両者は落馬し組討の末、通は脇腹を刺されながらも雅格貝勒の喉を締め上げて捕縛、金軍は退いた。世忠は勝利を喜ぶ一方、信号旗の合図を待たず進軍した統制らを軍法により処分し、規律を厳格に保った。
- 馬擴は沿海制置使に任じられ明州に駐軍した。
十八日丙辰 韓世忠、淮陽軍を包囲
- 韓世忠は雅格貝勒捕獲の勢いで淮陽軍城下に迫り包囲したが、城の守りは固く、金軍の烽火合図(囲まれた日数だけ松明を掲げる規則)により七日目に救援が到着したため、世忠は軍を退いた。
- 李綱が来朝。劉光輔は光州を包囲し、偽知州許約は降伏した。王彦は保康軍承宣使・京西南路安撫使兼知襄陽府に任じられたが、かつて新郷の役で自らを処罰しかけた岳飛の指揮下に入ることを憚り、赴任を辞退した。
三月 韓世忠・岳飛の加階
- 韓世忠は少保・武寧安化軍節度使・京淮東宣撫処置使(軍は楚州)、岳飛は検校少保・平静難軍節度使・川陝宣撫使(軍は興州)にそれぞれ加階された。
四月 淮陽軍の戦いと諸将の功
- 韓世忠は淮陽軍で金軍と交戦したが、張俊に援軍を求めて拒まれたため戦果を挙げられず退いた。二十七日、世忠には揚武翊運功臣の号が賜られた。
- 劉光世配下の酈瓊は偽斉が築いた劉龍城を急襲して陥落させ、その兵を尽く捕虜とした。劉光世はこの功で保静節鉞を加えられた。
五月 旴眙軍の築城
- 高世則は威徳軍節度使に、楊沂中は来朝。劉光世は保静武寧節度使、張俊は崇信奉寧軍節度使にそれぞれ加階され、張俊の建議による旴眙軍の築城が始まった。
- 右僕射張俊の主導するこの築城には左僕射趙鼎が難色を示し、地図を見て「(張俊の字を指して)徳遠は誤った、民の労苦を思わねば」と嘆いたと伝えられる。真夏の突貫工事で人夫は連日の土運びに苦しみ、周辺数十里の竹木は伐り尽くされ、無数の古墳が発掘される中、桑維翰のものと伝わる墳墓も暴かれた。しかも完成した城には水源がなく、実戦での防御には不安を残したという。工事中、偽斉軍三百騎が四州の境まで侵入したが、しばし様子を見て引き上げた。
六月~七月 諸軍の進軍
- 楊沂中は泗州へ、張俊は旴眙県へ、劉光世は廬州へそれぞれ進軍。七月には劉光世が寿春県を回復した。
八月 岳飛、鎮汝軍・商虢二州を回復
- 岳飛は鎮汝軍・商州・虢州を攻略。剽悍で知られた偽汝軍の薛亨を牛皋が生け捕りにして献じ、岳飛はこれを大いに賞賛した。岳飛はさらに西京長水県も回復した。
- 秦檜は行宮留守、孟庾は行宮副留守に任じられた(張浚の推挙による)。両名とも観文殿学士であったが、先任の孟庾が上位を望んだところ、秦檜は「かつて宰相であった自分こそ上位にふさわしい」と主張して譲らず、結局秦檜が正、孟庾が副となった。
- 王彦は母の喪に服そうとしたが許されず起用され、両浙西路淮南東路沿海制置副使として海路防衛にあたった後、行営前護軍副都統制に任じられた。
九月 劉豫の大挙侵攻
- 劉豫は偽殿前太尉許青臣に大総管府事を代行させ、子の劉麟を行台尚書令として号称七十万(実数二十万)の兵を三路に分けて南侵させた。東路は甥の劉猊が渦口から定遠・宣化を、中路は劉麟自身が寿春から合肥を、西路は孔彦舟が洛蔡・光州から六安をそれぞれ攻めた。