三朝北盟會編炎興下帙 紹興四年 1134年

張浚を慰撫する牓朝堂の詔

  • 皇帝は自ら詔を書き、張浚の憂国の誠意と川陝経略の功を認めつつ、遠地での権勢が誤解や讒謗を招きやすいのは已むを得ぬことだとし、恐懼して自らを責める張浚の様子を見て「忠節の臣に明哲保身の戒めを抱かせては朕の本意でない」と朝堂に牓示させた。

諸将の退軍と濠州の陥落

  • 劉光世は建康府へ、韓世忠は鎮江府へ、張俊は常州へそれぞれ軍を退いた。一方、濠州鎮撫使冦宏は城を棄てて逃走し、丁成・魏進は金に投降した。
  • 金軍は重兵で濠州を包囲攻撃、冦宏は軍民僧道混成の寡兵で守りきり、毎晩自ら歩いて巡視し軍紀を厳しくした。冦宏考案の「破金鎚」で雲梯を登る敵を撃退し、崩れた女墻もその場で修復するなど七昼夜守り抜いたが、ついに支えきれず北門から母と嫂を連れて脱出した。
  • 通判国奉卿は冦宏の遁走計画を知らず舟に乗せられ、抗議したところ恨まれて殺された。統制軍馬成・副統制魏進は投降し、金軍は冦宏の家族の隠れ先を密告した成をも処刑、賈舎人を経て趙栄を偽知軍州事とした。

十二月 張俊、沿江の軍を慰労し金軍を欺く

  • 使命を終えて帰る魏良臣・王繪と道中で会った張俊は、金の大帥烏珠が維揚に十万の兵を擁し、江南を「小国」扱いして莫大な歳幣を要求し韓世忠との決戦も約したとの情報を得た。張俊はこれを朝廷に密奏しつつ、自ら急ぎ臨江に赴き韓世忠・劉光世と諮り軍を鼓舞。
  • 韓世忠を通じ「張枢密(張俊)はすでに鎮江にいる」との偽書を烏珠に送らせ、左遷されたはずの張俊が現地にいることに烏珠が動揺している隙に決戦を約させ、実際には夜のうちに金軍を撤退させることに成功、追撃で多数を討ち取った。

太陰、昴を犯す―天象をめぐる議論

  • 「太陰犯昴」の天象について、晋の天文志に「五年にして敵を滅ぼす」とあるとの奏上があり、胡松年は「天象がこうである以上、中興は期して待てる」と述べたが、皇帝は「范蠡も天応は至ったが人事はまだと言った、要は朝廷の措置次第だ」と応じ、趙鼎も人事を修めて天に応えるべきと同意した。

将士を奨める詔と偽廷帰順を招く詔

  • 皇帝は江淮に展開する諸将の訓練・士気の充実を賞し、久しく征役に服す将士への感謝と撫慰の詔を下した。
  • 十三日丙戌には、偽斉(劉豫政権)に仕える士大夫へ帰順を呼びかける詔も発した。靖康の変に至った経緯を悔い、已むを得ず偽廷に仕えた者(張孝純・李鄴・李儔ら)の家族の禄仕は既に保護してきたとし、心を改めて帰順すれば爵秩を旧に復し、功があればさらに厚く賞すると約束した。

冦宏、皇帝に召見される

  • 濠州を棄てた冦宏は平江府へ逃れ潜伏していたが、皇帝の駐蹕を知り出頭。衛士に引き据えられて震え上がり、淮南の事情を問われても言葉を発せられず、そのまま濠州へ速やかに戻るよう命じられた。

二十日癸巳 六合県の戦いと戦果の偽装

  • 張俊配下の張宗顔は六合県で金軍と交戦し敗れたが、勝報として偽って上奏された。折彦質は樞密都承旨に任じられた。

河南安撫使席益の処分

  • 崔邦弼・呉錫両軍を馬某(□底本欠字)に配属させる詔が出されたが、河南安撫使席益はこれに従わず、皇帝の怒りを買い罷免された。

汪伯彦、罷免される―「建炎中興日暦」の顛末

  • 汪伯彦は紹興三年の勅命により大元帥府時代からの事跡を編纂し「建炎中興日暦」全五巻としてこの年に完成させ進呈したが、間もなく官職を剥奪された。
  • 進呈にあたっての上表・序文は、皇帝が康王時代から兵馬大元帥として挙兵し、靖康元年十一月から建炎元年五月の即位に至る経緯を丹念に記録し後世に伝える意義を説くもので、慎始慎終を君主の要諦とする伊尹の故事などを引いて美辞を連ねた内容であった。

三十日癸卯 金軍、滁州から撤退

  • 金軍は四十七日にわたり占拠していた滁州から退去した。

王進、淮水で金軍を破る

  • 張俊の命を受けた王進は、渡淮しようとする金軍を淮水のほとりで急襲し大破、敵将程師囘・張建壽を捕らえた。程師囘は「劉豫が金に『劉光世・韓世忠は既に実権を失った、江南は容易に取れる』と説いたため今回の侵攻となった」と供述、趙鼎はこれを上奏し、劉光世・韓世忠の両将には漢の賈復・冦恂の故事を引いて自重を訓戒した。

金主烏奇邁(太宗)の死と皇位継承

  • 『節要』によれば、紹興四年冬、金主烏奇邁は病により薨じ、安班貝勒(都元帥完顔亶)に伝位した。かねて安班貝勒を儲嗣に立てていたため継承は円滑であったが、大軍が江上で対峙中のため喪は伏せられ、翌年春に軍が帰還してから諸路に告げられ、烏奇邁の霊を祀る儀(抛盞焼飯、金の風俗である)が一月にわたり行われた後、完顔亶より「太宗文烈皇帝」の諡が贈られた。
  • 『神麓記』によれば、烏奇邁はかねて中風で半身不随を患い、天会十三年正月元日、扶けられて外出した折に東方から昇る太陽に沿って現れた仏の姿を随従の者と共に見たが、その直後に再び中風を発して昏倒し、明徳宮で六十一歳で崩じた。宗幹・宗維は遺命として安班貝勒赫嚕を柩前で即位させ、「太宗文烈皇帝」と諡し、豫陵に葬った。
  • 趙子砥『燕雲録』によれば、金国は誓約により軍費以外に使うことを禁じた国庫を持っていたが、烏奇邁が私用に浪費したため、諳班が尼堪に進言し国主の違約の罪を糺し、群臣が国主を殿から引き降ろして杖二十を加え、その後群臣が謝罪して再び殿上に上らせるという出来事があったと伝える。