九月二十九日癸酉 趙鼎、拝相
- 趙鼎は尚書右僕射同中書門下平章事兼樞密院事に任じられた。朝廷は当初、趙鼎を川陝荆襄諸軍都督に任じていたが未着任のうちに偽斉が大挙侵攻を企てたため、宰相朱勝非が服喪により辞去したのを機に趙鼎を留めて拝相させ、あわせて四川へ撫諭の詔を下し、来春の改めての差配を約した。
程昌禹「上廟堂書」―大臣派遣の不可を論ずる
- 知鼎州程昌禹は、趙鼎を川陝荆襄都督として派遣する策の不利を朝廷に上申した。使命が発せられれば数百人規模の官吏配置と屯兵の費用が州県に転嫁され、疲弊した州県をさらに苦しめると指摘し、「名を徇(したが)えば害あって利なし」と断じた。
- 張浚が入蜀した当初も権限・財力・兵力に不足はなかったのに功を上げられず、かえって州県に怨嗟を招いた前例を挙げ、今の四川はさらに疲弊しているとした。富平の戦で十五万の騎兵を擁しながら大敗した例、曹操が赤壁で敗れた例、呂蒙が孫権に徐州でなく荆州確保を献策し関羽討伐に成功した例などを引き、根本たる長江の防備(荆州)を固めることを優先し、遠征による分散を避けるべきだと説いた。
- 趙鼎個人の忠義と器量は認めつつも、事の趨勢が不利である以上、朝廷は改めて利害を熟慮し、大臣・大将を荆州に置いて根本を固める策を取るべきだと結んだ。
承州陥落
- 金軍が承州(高郵軍を改称した州)を攻め、楚州の知州樊序賓は城を棄てて逃走した。
十月 沿江防備の諸将配置
- 劉豫が徐文を遣わして海路から明州を侵すとの噂により、朱師亮が兵千を率いて明州に駐屯した。
- 張俊は浙江西東宣撫司として鎮江府に駐軍したが、金・偽斉が淮甸へ大挙侵攻するとの情報に韓世忠が渡江して迎撃、張俊軍は鎮江府に留まる中で兵士が民の舟船を掠奪する不祥事もあった。烏珠は天長軍、劉麟は旴眙軍に屯した。
- 孟庾が行宮留守、蘭整・辺順が臨安府弾圧官に任じられ、親征の議に備えた(この時点では親征はまだ決まっていなかった)。張浚は資政殿大学士兼侍読に召還され、皇帝は自ら手書を賜り速やかな帰朝を促した。
十三日戊子 韓世忠、大儀鎮で金軍を破る
- 韓世忠は金の鉄騎二百余と遭遇し苦戦、落馬し捕らわれかけたところを部将の通(某)に救われ、乗り返して敵を退けた。世忠は通の功を賞し武功大夫・吉州刺史を推挙したが自らの誥命を返上してでもさらなる重賞を求め、通には落階官の上で吉州刺史が授けられた。
解元、高郵軍で金軍を撃破
- 解元は金軍来襲を予知し、要路と嶽廟付近に伏兵を配置、樊良には決河策も用意して退路を断つ策を講じた。金の百五十騎が城下に迫ると伏兵を発動し、逃げ場を失った敵は嶽廟方面へ向かったところを追撃され、百四十八人を捕獲した。天長で功のあった董皎とともに正任観察使に加階された。
馬某(□底本欠字)の復官
- 融州仙渓にあった馬某(諱の一字が底本に欠字)は、張浚から遠く使者を送って招かれた際、劉子羽との旧怨を理由に一度は断ったが、紹興三年に都督府参議官に召され、紹興四年九月には川陝都督府に召されて詳議官に任じられ、皇帝への奏対が意にかない、拱衛大夫・利州観察使・樞密副都承旨に復官した。
牛皋・徐慶、廬州城下で金軍を破る
- 金・偽斉連合軍が淮西を攻め、安撫使仇悆の官軍が総崩れとなった際、岳飛は徐慶・牛皋を援軍として派遣。両将はわずか十三騎で先着し、五千余騎の金軍に対して牛皋の名を掲げ威嚇するはったりで敵を動揺させ、機を見て突撃、敵は潰走した。牛皋は十三騎のみで五十里を追撃し、十余万の金の大軍まで一夜で退いたという。
- 仇悆はその武勇を称え岳飛に感謝したが、岳飛はこれを喜ばず功を徐慶に付け牛皋を低く扱ったため、淮西の人々はこれを不満に思ったと伝えられる。
二十三日戊戌 親征の詔と趙鼎の周旋
- 金軍が淮甸に迫る中、渡江して迎撃すべき張俊軍が躊躇し朝野が動揺したため、趙鼎は皇帝に親征を促した。中官(宦官)が反対していると知った趙鼎は、近臣の宦官らを都堂に招いて酒宴を設け、国家安危の道理を説いて説得し、ようやく親征の議が定まった。
- 詔では、南渡以来北方の脅威が続き二聖いまだ帰らぬ中、天子自ら軍を巡視する意を示すとし、州県には民を侵擾せぬよう厳戒する詔も併せて下された。戦費や動員の重さを憂い、地方官には不正な取り立てや治安の乱れを防ぐよう命じ、軍事が落ち着けば廷臣を派遣して郡国を巡察させるとした。
二十四日己亥 親征出発、張守の建言
- 皇帝は臨安府を発した。諸将が捕虜を秀州で処刑しようとした際、知福州張守は、真の金人・外国人捕虜は誅すべきだが、劉豫に強制徴発された両河・山東の民は本来陛下の赤子であるとし、恩信を示して帰順を促せば劉豫軍はかえって自壊すると上疏した。以後、諸将は各地で金軍を撃破し続けた。
二十七日壬寅 平江府にて陳東・歐陽澈を追贈
- 皇帝は平江府にて、かつて黄潜善・汪伯彦執政下で処刑された陳東・歐陽澈の非を悔い、両名に秘閣修撰・恩沢二資を追贈し田十頃を賜って、深い悔恨の意を示した。
三十日乙巳 仇悆、寿春府を回復
- 淮西安撫使仇悆は孫暉の兵と合流して劉豫軍を破り、寿春府を奪還した。
十一月十三日戊午 滁州陥落
十四日己未 張浚、知樞密院事に
- 張浚は知樞密院事に任じられ、上奏して忠孝を人道の第一と説き、かつて奸臣に讒害され罪に陥れられた苦衷と、それにもかかわらず皇帝の厚遇を得た感激を切々と述べ、公議の批判に応えられぬ身の不徳を恥じつつ拝命した。