三朝北盟會編炎興下帙 高宗 紹興四年 1134年

金への通問使、再び派遣

  • 正月、枢密承旨章誼と中書舎人孫近が金国への使者となった。

呉伸、張浚を弁護する上書

  • 二十九日、呉伸は張浚の罪を論じる声が高まっていることに対し、趙襄子と髙赫の故事(功ある五人より、礼を失わなかった一人を賞した逸話)を引き、張浚には「忠は余りあるが智が及ばぬ」面はあるとしつつも、苗劉の乱を平定した忠義は多大であると弁護した。朋党による誣告で忠臣を陥れることの危険性を説き、張浚の功績を罪より重く評価すべきと訴えた。

仙人関の戦い

  • 二月、金の烏珠が大軍で仙人関に迫ったが、呉玠は「殺金坪」の砦を築いて五日にわたり奮戦しこれを撃退した。劉豫の弟劉益からの内報も功を奏した。
  • その後、統制郭震が敵襲で寨を破られる失態があり、呉玠は震を斬って軍紀を正した。熙河経略使関師古は救援に赴かず、後に劉豫に叛帰した。

都督府の廃止と趙鼎の登用

  • 朱勝非の建議により都督府が廃止され、諸将の自律的な対応に委ねる方針となった。趙鼎が行在に召され、三月八日に参知政事となった。

張浚、弾劾により罷免

  • 張浚は召還命令に応じるのが遅れ、蜀の公私の財を運び出したことなどが問題視された。侍御史辛炳をはじめ、複数の臣僚が連続して弾劾の上奏を行った。弾劾の内容は、富平での大敗(陝西五路の喪失)、曲端・趙哲を無実の罪で死に至らしめたこと、召還命令への不遜な対応、蜀地の財を私したことなど多岐にわたる。
  • 三月十五日、張浚は知枢密院の職を罷免され、資政殿大学士・臨安府洞霄宮提挙として左遷された。