三朝北盟會編炎興下帙 高宗 紹興元年 1131年

曲端、獄死す

  • 張浚は富平敗戦の責任を曲端に転嫁しようとし、王庶・呉玠らの讒言や、曲端の詩に不敬の意ありとする口実を用いて恭州の獄に下した。獄吏康隨(かつて曲端に杖罰を受けた恨みを持つ)は紙で口を塞ぎ火で炙るという苛烈な方法で曲端を渇死させた。世人はこれを深く悼んだ。
  • 林泉野記は曲端の経歴を詳述する。文武に優れた名将であったが、張浚に忌避され、富平の戦いでも慎重論を容れられず、最終的に無実の罪で殺された。後に朝廷でもこの処置を問題視する声が上がった。

翟興、偽信王を討つ

  • 河北から渡河してきた「親王」を自称する集団の正体を翟興が見破り、部将董先に追討させ、偽の信王(実は楊餻糜の子)を討ち取った。

馬友、孔彦舟を破る

  • 馬友は鄂州を守る張用との衝突を経て湖南副総管に任じられ、孔彦舟を撃破して潭州に入った。
  • 孔彦舟は潭州で敗れた後、鄂州近郊で困窮する民に米を安価で売って民心を得つつ、朝廷の招安に応じた。

呉玠、和尚原・箭筈闗で金軍を撃退

  • 五月、金将哲爾格貝勒・黙哷らの攻撃をいずれも呉玠が撃退した。

郤清、太平州を攻める

  • 招安を受けていた郤清が太平州を包囲し激しい攻城戦となったが、知州郭偉が水攻めなどで奮戦し、最終的に劉光世の招安を受けて退いた。

朱勝非、江西の情勢を上奏

  • 朱勝非は江西安撫大使として、盗賊招撫の方策(招安した者への官職付与、老弱の除隊、地方統治の一元化)を上奏し、実際に世範という人物を使って賊首李宋仁らの投降を実現させた。

郭仲威、凌遅処刑

  • 平江府での騒擾の責を問われ、王徳に捕らえられた郭仲威は市中で凌遅処刑に処された。

張俊、李成を蘄州で撃破

  • 張俊は黄梅県で李成を破り、石幢坡でも撃破した。李成は劉豫のもとへ逃れた。
  • 張俊は鄂州の李允文の兵権を削ぎ、罪を問うため行在へ送った。

沈與求、王安石批判を上奏

  • 侍御史となった沈與求は、王安石の変法を「心術の不正」と断じ、靖康の禍の遠因になったとして厳しく批判した。

邵興、興元府へ退く

  • 邵興(後に「隆」と改名)は董先に敗れ興元府へ退いた。

岳飛、張用を招安

  • 岳飛は張用軍五万を招安に導き、七月に神武右軍副統制に任じられた。

蔡京・王黼らの門人の官職剥奪議

  • 蔡京・王黼・童貫・譚稹・李彦・朱勔・梁師成・孟昌齡・楊戩の親族・門人で官を得た者について降格が決定された。

范宗尹、宰相を罷免

  • 侍御史沈與求の弾劾により、范宗尹は宰相を罷免され観文殿大学士に左遷された。范宗尹の経歴と、江淮荆湖の十五鎮撫使設置など在任中の施策も記される。

張琪、饒州を侵す

  • 張琪は饒州を侵したが呂頤浩配下の諸将に大敗し、浮梁へ退いた。

濠州の混乱

  • 知濠州李玠は危険な状況下で財を蓄えつつ城を放棄し、冦宏に州印を渡して脱出した。

卞寧・郭仲威残党、招安に応じる

  • 楚州の漁民出身の卞寧らは食糧難から略奪を重ねていたが、劉光世の招安に応じた。

張俊への班師命令と林遹の上疏

  • 朝廷は張俊に班師を命じた。中書舎人林遹は上疏し、李成敗走後も油断せず、金軍の再侵攻や陝西方面への波及に備えるべきと説いた。

張用軍の再編

  • 八月、張俊は降伏した張用の軍五万のうち精鋭を選抜して留め、残りを解散させた。曹成は湖南へ逃れ、韓世忠がこれを追った。