三朝北盟會編炎興下帙 高宗 紹興元年 1131年

隆祐皇太后の崩御と国喪

  • 十四日、隆祐皇太后が薨去した。遺詔では簡素な葬儀を求め、金玉の副葬品を用いぬよう命じた。
  • 太常寺は「昭慈獻烈皇后」の謚を議定し、承天・佐国の功績を讃える議奏文を朝廷に上奏した。
  • 以後、大殮・成服・祖奠・上諡冊寳・祔廟・卒哭など一連の国喪儀礼が順次執り行われ、各節目ごとに哀悼の祭文が奉じられた(内容は儀礼上の常套句が中心のため詳細は省く)。
  • 秀水閒居録は、哲宗代の宮中逸話(「孟入」「孟家蟬」の流行語)を、後年の孟后(隆祐皇太后)の二度の垂簾・複位と重ね合わせ、予兆として語る。孟后は元祐皇后として一度廃され、靖康の変後に張邦昌らの偽朝を経て隆祐皇太后として二度目の垂簾を行い、苗劉の変後の内乱鎮定にも関わった。

王徳、郭仲威を捕らえる

  • 郭仲威は真揚州鎮撫使だったが金軍来攻時に逃亡と復帰を繰り返し、信用を失った。劉光世配下の王徳が摘星台で郭仲威を捕らえ、その軍を吸収した。

冦宏・趙瓊ら、龜山に集結

  • 淮水沿いの水賊冦宏・趙革(趙瓊の父)らが内紛を経て龜山に合流し、郭仲威配下の宏らが泗州・盱眙軍などを分掌した。郭仲威が捕縛された後、冦宏は濠州を窺ったが李玠に撃退された。

桑仲、鄧州を陥落

  • 桑仲は鄧州を包囲し、知州譚兖は西川へ逃走した。桑仲は部将李横を知鄧州軍州事とし、寝返った王俊を凌遅処刑した。

廬州・揚州の鎮撫使人事

  • 王享が廬州夀春府鎮撫使、史康民が真揚州鎮撫使を兼ねることとなった。