范宗尹の拝相と張守の参知政事
- 范宗尹は尚書右僕射同中書門下平章事、張守は参知政事に任じられた。皇帝は再三の辞退を退け重用の意志を示した。「遺史」は范宗尹の登用を評価しつつも、汪藻が制詞で杜充を不当に擁護した点(実際は戦わず敗走したのに「力戦した」と美化した)を朋党の弊として批判している。
各地の窮乏と匪賊の動静
- 張用は淮西に侵入したが、金軍撤退後の荒廃した戦場では兵糧が尽き、毒の有無を問わず草木を食べる惨状となった。御前五軍は神武五軍、御営五軍は神武副五軍にそれぞれ改称された。崔増は焦湖の水寨を陥落させ、淮西の富商から財貨を奪った。
- 孫興は濠州から金の本拠に帰還し、将校朱式らは軍民に推されて兵馬都監李价を権知軍州事とし、建炎の年号を復した。
六月~八月 滁州をめぐる攻防
- 六月二日、劉光世が朝見した。劉位は張文孝を破り滁州を回復したが、後に張文孝の反撃により劉位自身が敗死した(朝廷はその地に「剛烈」の廟額を与えた)。十一日辛巳、趙立は孫村浦の達蘭の陣を攻めたが、援軍に阻まれ攻めきれなかった。
沿江大安撫使の配置
- 呂頥浩は建康府路大安撫使兼知池州、朱勝非は江州路安撫大使兼知江州、劉光世は両浙西路安撫大使兼知鎮江府にそれぞれ任じられ、沿江防備の要とされた。太湖に軍を棄てて逃げた周望は招化軍節度副使・連州安置に処された。
陳規、徳安府を八年守り抜く
- 陳規は靖康の混乱の中で徳安府を自ら統べ、城を修め兵糧を蓄えて幾度もの攻撃を退け、中原の郡県が次々に陥落する中で徳安府一城のみを保ち続けた。ただし厳刑重斂により民心をやや失ったとも評される。徳安府漢陽軍鎮撫使兼知徳安府に任じられた。
陳規「朝野僉言後序」―靖康の攻城戦を検証する
- 陳規は靖康年間の開封陥落の経緯を分析した長大な論考を著した。太原救援の失敗(大軍を一括で前進させ、先鋒が敗れると全軍が退いてしまった用兵の拙さ)、寿陽が少数の兵で持ちこたえた事例との対比を通じ、兵力の多寡よりも用兵の巧拙が勝敗を決すると論じた。
- 続けて、開封籠城戦における守城側の失策を具体的に検証する。砲(投石機)の配置・射程・弾種(石より泥丸が有効なこと)の使い方、雲梯・対楼など金軍の攻城兵器への対応、女墻(胸壁)の構造改善、羊馬墻(外郭の低い防壁)の併用、城門の迂回配置による陥穽の設置など、実戦に即した多岐にわたる築城・防御の具体策を提示した。
- 陳規は、開封の旧来の城郭がそれ自体は堅固であったにもかかわらず、運用の巧拙によって陥落を招いたと総括し、墨子が公輸般の攻城策をことごとく退けた故事や、後趙の石勒が突門の奇策で包囲を破った故事を引きつつ、「戦は詭道なり」として敵の意表を突く柔軟な守城戦術の重要性を説いた。結びに、軍事機密に関わる詳細は尽くして語れないとしつつも、後世の守城のための参考として、僉言(先行の記録)の後に自らの見解を付した経緯を述べている。