三朝北盟會編炎興下帙 建炎四年 1130年

二十四日乙未 韓世忠、建康府の長江で金軍を破る

  • 韓世忠は江中に船団を布陣し金軍の帰路を扼した。緒戦で金軍を破った功により検校少師・武成感徳軍節度使に任じられた。

二十五日丙申 黄天蕩の戦い、韓世忠再戦して敗れる

  • 烏珠は海船を自在に操る韓世忠軍に手を焼いたが、福州出身の商人(王氏を名乗る者)の献策により、無風時に舟を漕げる小舟を用意し火箭で帆布の海船を焼く戦法を編み出した。無風の日、金軍は火箭でこれを実行し、韓世忠軍の海船は炎上、孫世詢・厳永吉ら多くの将兵が力戦の末に戦死した。
  • さらに金は一夜で新たな水路(蘆陽の地)を掘削して韓世忠の包囲を脱し、建康方面へ退いた。韓世忠は瓜歩で舟を棄て陸路鎮江へ退いた。孫世詢は苗劉の乱鎮圧や建康での奮戦で知られた勇将であったと伝えられる。

その他の戦況

  • 張進・梁斌は金の陣営から脱出して帰参した(梁斌は当初処罰を恐れられたが結局は不問となった)。牛皐は宋村で金軍を破り、馬五太師を生け捕りにした。
  • 汪藻は、金軍が建康に長期駐留し越夏する構えを見せていることを憂慮し、韓世忠の捷報を鵜呑みにせず、張俊の軍を速やかに増派して建康の金軍を一挙に掃討すべきだと上奏した。建康は東南の要衝であり、ここを金に押さえられれば漕運も号令も通じなくなると警告した。

五月七日戊申 王惟忠、韭山寨から劉位に帰順

  • 濠州の土豪王惟忠は韭山に堅固な寨を築き万余の民を保護していたが、金の傀儡である孫興の招撫を拒み続け、最終的に招信県の節制使劉位に帰順した。韭山寨の水源をめぐる「帰水洞」の伝説も記される。

十日辛亥 劉宴、宣州で戦死

  • 戚方に包囲された宣州を救援すべく派遣された劉宴は奇襲で戚方を敗走させたが、追撃中に伏兵に遭い力戦の末に戦死した。朝廷はその忠勇を惜しみ龍図閣待制を追贈し、「義烈」の廟額を与えた。

十一日壬子 金軍、建康を焼き払い北へ

  • 金軍は建康府を焼掠し、江東安撫使陳邦光を連行して渡江した。建康は半年余り金の占領下にあったが、この撤退で城中は灰燼に帰した。邵青は建康奪還を試みたが果たせなかった。

十三日甲寅 宣州の囲み解ける

  • 戚方は劉宴・巨師古の来援で三度敗れ、二十九日に及ぶ包囲を解いて退いた。籠城戦では財物を惜しみなく用いた防戦策(死士の募集、木塔の焼却など)が功を奏したと記される。
  • 岳飛は、自らの母子を害そうとした同僚劉涇の陰謀を察知し、先手を打ってこれを討ち軍を併合した。史康民は定遠県で金軍に敗れ、金の調略工作に関わっていた閭勍が捕らえられ連行された(閭勍は靖康以来の忠義の将として知られ、後に金への抵抗を貫き殺された)。荊南では劉超が勢力を張り、劉位は趙瓊の寨を再度攻めたが趙立の援軍に阻まれた。