三朝北盟會編炎興下帙 建炎四年 1130年

二月一日甲戌 諸将の処分と帰順

  • 郭仲荀・張思正・滕康・劉珏らは責を問われた。京城失陥後に光州へ逃れた劉光世配下の酈瓊は、当地で黄林の乱と戦い功を挙げつつも同僚と軋轢を生じたが、招安を受けて劉光世に帰順した。楊世雄も劉光世に降り、傅選は隆祐皇太后に投降を願い出た。

十三日丙戌 金軍、杭州を屠り撤退

  • 烏珠は皇帝を追って明州に至った後、越州で班直の唐琦に襲われる事件(唐琦は殺された)を経て杭州へ戻り、三日三晩にわたり市街を焼いた後、輜重の運搬のため陸路(秀州・平江経由)で撤退し、沿道の集落を焼き払った。皇帝は臨安府の民兵の奮戦を称える撫恤の勅書を発した。

十四日丁亥 開封陥落

  • 開封では兵糧が尽き飢餓が深刻化する中、聶淵ら投降派が城内で放火し、留守上官晤は殺害され、金軍が入城した。済南の劉豫による調略工作もあったが上官晤はこれを拒んでいた。金は前都水使者王夔を留守とした。

十七日庚寅 鍾相の乱、勃発

  • 鼎州武陵の鍾相は、二十年来「天大聖」を称し貴賤貧富の均等を説く民間信仰で信者を集めていたが、金軍の潭州陥落と孔彦舟の澧州侵攻に乗じて挙兵し、鼎州・澧州・荊南・潭州・峡州・辰州の十九県が瞬く間に賊の勢力圏となった。官吏・儒生・僧道・医者などが多数殺害される凄惨な混乱となった。

秀州・平江府の陥落と諸将の敗走

  • 十八日、秀州は権知州軍事趙士醫が防戦の末に戦死し陥落した。程昌㝢は蔡州も維持できず南帰した。二十二日、宣撫使周望は金軍接近に恐れをなし軍を棄てて太湖へ逃れ、知平江府湯東野も城を棄てて逃走した。
  • 二十三日、李成は舒州を陥落させた。皇帝は海路から浙東へ戻り、徳音を発して民の労苦を慰撫した。二十五日、平江府は周望・湯東野不在のまま守将なく陥落し、金軍は三日三晩火を放って城を焼いた。
  • 楚州の趙立は右武大夫・徐州観察使・知楚州軍州事に加官された。荊門軍の劉超は金軍接近を受け城を棄てて撤退し、宿遷の趙瓊は楚州の招撫に応じ朝廷に帰参した。二十九日、郭仲威は平江府に再入城し略奪を働いた。

三月 各地の攻防と鍾相の敗死

  • 陳思恭は呉江で金軍を破った。孔彦舟は鼎州に入城し、鍾相の乱の鎮圧にあたることとなった。盧益・李迴が三省樞密院の権知・権同知として虔州の隆祐太后を迎えに赴いた。呉玠は寳鶏で金軍に敗れた(曲端との不和が背景にあった)。
  • 十日、常州は陥落した(住民が練湖の水を抜いて金軍の水路を断とうとしたが、閘門の管理放棄により効果がなかった)。皇帝は処州へ移った。二十六日、孔彦舟は偽計により鍾相を大敗させ捕らえた。

四月 呂頥浩の罷免と各地の攻防

  • 皇帝は越州へ移った。尚書左僕射呂頥浩は鎮南軍節度使・開府儀同三司・中太一宮使に転じ罷免された(実質的な栄転左遷)。張俊は両浙西路・江南東路制置使に任じられ韓世忠の後詰めとされた。
  • 十四日、潰軍戚方は宣州を攻めた。知州李光は市民・僧道を含む籠城で応戦し、交渉と防戦を織り交ぜて持久した(詳細は次巻に続く)。王徳は饒州で劉文舜を捕らえ処刑した。劉位は趙瓊の寨を攻めて敗れた。