三朝北盟會編炎興下帙 建炎四年 1130年

一日甲辰~三日丙午 明州陥落

  • 皇帝は昌国県に駐蹕した。張俊は髙橋で金軍を破ったが、なお不安を感じて知明州劉洪道らと城を棄てて逃げた。住民が争って城門から脱出する中、洪道が浮橋を断ち切ったため多くの住民が渡れず金軍に殺された。明州は屠戮され、住民は張俊の「小勝ゆえの大禍」を恨んだ。

五日戊申 昌国県も陥落

  • 皇帝は明州陥落を知り昌国県を発った。金軍は小船で海を渡り昌国県を襲い、皇帝の船団とわずか一日違いで焼掠した。

七日庚寅~ 章安鎮への避難と各地の戦況

  • 章安鎮へ向かう途上、司全・張擬は略奪した宗廟の神御を携え虔州の隆祐太后に投降を願い出た。傅選は彬州を陥落させた。岳飛は宜興県に屯し、郭吉の軍を巧みに威圧して吸収した。王徳・張景は袁州で叛将趙万を斬った。

十四日丁巳 陝州陥落、李彦仙の壮絶な死

  • 陝州を守る李彦仙は高い士気で籠城戦を続け、張浚の献策(空城策や清野策)にも自らの守城策を通したが、金軍は羅索の号令のもと三十三日間昼夜を分かたぬ猛攻を続け、遂に城は陥落した。李彦仙は脱出後、自らの籠城が金軍の激しい殺戮を招いたことを恥じ、黄河に身を投げて死んだ。人々はその忠烈を惜しみ、張浚も文を作って祭った。

十五日戊午 章安鎮での逸話

  • 章安鎮滞在中、元夕(小正月)に柑橘の皮に油を灯した無数の灯りを海に流し、住民が金鰲峰から眺めたという風雅な逸話が記される。耿嗣宗は盧氏県で金軍を破った。

二十日癸亥~ 潭州の陥落と向子諲の抗戦

  • 章安鎮を発った皇帝一行は小島の寺に立ち寄るなどしつつ南下した。湖南では潭州の向子諲が金軍の投降勧告を拒み徹底抗戦したが、衆寡敵せず城は陥落、軍民は巷戦の末に多くが殺された。皇帝は事後、潭州の官吏軍民の忠誠を称える撫恤の勅書を発した。邵興は虢州盧氏県へ退いた。

二十四日丁卯 虔州の軍乱

  • 隆祐太后一行が至った虔州では、物資の窮乏から護衛の兵と地元民が衝突し、放火・略奪の大乱となった。鄉兵の陳辛が数万を率いて虔州を包囲したが、援軍の到着で囲みは解かれた。

二十五日戊辰 車駕、温州へ

  • 皇帝は温州の江心寺に駐蹕した。京城留守程昌禹は食糧欠乏のため蔡州へ退いた。楚州では知州趙立が金軍の四十余日に及ぶ猛攻を、鹿角・月城・金汁(溶けた金属を浴びせる防御)などの巧みな守城術で撃退し、城を守り抜いた。

二十七日庚午 李成、六安県を陥落させる

三十日癸酉 汪藻、諸将の怠慢を弾劾する上疏

  • 朝廷は駐蹕地の方針について随行官に意見を求めた。汪藻は、劉光世・韓世忠・張俊・王燮ら重鎮の将が高位高禄を得ながら金軍来襲時にはことごとく戦わず、韓世忠は鎮江の物資を放棄して逃走の構えを見せ、劉光世も出兵せず、王燮に至っては杜充の危機を見殺しにしたと痛烈に批判した。張俊の明州での小勝も、深追いせず撤退したために却って明州の惨劇を招いたと論じた。
  • 汪藻は、諸将が民への略奪・虐待を働きながら罰せられない現状が国家の綱紀を崩していると訴え、周世宗や白起・郭元振の故事を引いて、王燮の斬首をはじめとする厳格な信賞必罰の実行と、有能な大臣による諸将統制の必要性を説いた。この月、京城留守司は牛皐を同統制兼京西南路提点刑獄に登用した。