隆祐皇太后、吉州から虔州へ
- 皇太后一行は吉州を発ち生米市で金軍接近の報を受け夜通し移動、随行の官員も次々に山中へ逃れる中、少数の側近のみが供をした。金軍の追撃を受けつつ皂口で舟を捨て陸路で虔州へ至った。
- 撫州は知軍事王仲山が金に投降した。弟の王仲嶷も袁州で先に投降しており、後の綦崇禮の制詞は兄弟そろって節を守れなかったことを厳しく批判した。
二十九日癸酉 建康府陥落、楊邦乂の死節
- 江東安撫使陳邦光は金軍の威容を見て自ら投降し、城門を開いて金の烏珠を迎えた。通判楊邦乂は投降を拒み、宋臣として金に仕えることはできないと烏珠を面罵し、殺害された。後に葉夢得の上奏により建康府南門外に「褒忠」の廟が建てられた。
- 建昌府では権知軍事蔡延世が金の使者を斬り、来襲した金軍を撃退して城を守り抜いた。水軍の邵青は建康陥落後も長江上で舟を集め、数万規模の勢力を維持した。
濠州の投降と杜充の失脚
- 権知濠州張宗望は孤城を守りきれぬとして金への投降を決め、金は孫興を知州として派遣した。北軍と濠州の民は平穏に共存したという。
- 杜充は建康放棄・軍潰の責を問われ、観文殿学士・提挙江州太平観に落職した。制詞は李勣のような長城たるべき期待を裏切ったことを厳しく非難した。
十二月 江南各地の陥落
- 金軍は建康を得た後、溧水・建平を焼き払いつつ杭州方面へ進み、広徳軍・安吉県・餘杭県が次々と陥落・投降した。杭州では安撫使康允之が敵と気づかず出撃して敗れ、城を棄てて逃げた。
- 十七日、杭州では権知州劉誨が、旧知で既に金に降っていた李儔との対面を軍民に投降の意思ありと誤解され、暴動の中で一族もろとも殺害された。後に直龍圖閣を追贈された。
十九日~二十五日 皇帝、海路で南方へ避難
- 明州も維持困難として、皇帝は張公裕の準備した海船で定海県、昌国県へと移動した。張俊には明州防衛を命じ、勝利すれば王爵を与えると約した。
- 越州も浙東安撫使李鄴の投降と宣撫司郭仲荀の敗走により陥落した。金は洪州でも財貨を徹底的に収奪した。潰軍の成阜は婺州を脅かしたが、防遏使傅崧卿が単騎で説得し投降させた。
- 二十五日、張俊は明州で金軍を破った(間諜任存の功による)。李成は淮西へ転戦し、隆祐太后は臨江軍・吉州に守備の兵を配した。将領の投降・離反(梁斌・張進ら)や、邵青による蕪湖での戦勝、統制戚方による扈成殺害と岳飛軍への合流劉経らの動きなど、各地の軍閥の離合集散が相次いだ。