車駕、明州へ向かう
- 皇帝は明州への移動を図ったが、御座船が堰を通過できず斫り砕く事態となり、供の兵が不満の声を上げた。宰相呂頥浩は自ら雨中泥濘の中で兵をなだめ、国家の危急を訴えて鎮めた。
中書舎人李正民「己酉航海記」に見る南遷の経緯
- 七月、皇帝は金陵(建康)にあり、隆祐太后・六宮と非軍事の百司を南昌へ移す詔を発した。閏八月には江北の情勢を踏まえ、鄂岳へ赴く案と呉越にとどまる案が議論されたが、補給の困難と江北賊軍への備えから呉越行きが決まった。呂頥浩・杜充が左右僕射に任じられ、皇帝一行は建康から平江府、越州へと移った。
- 十月、金軍が采石から渡江したとの報が届き朝廷は動揺、応援の兵を派遣しつつ衢州・信州方面の防備も固めたが、隆祐太后一行は虔州へ向かい、皇帝は張浚・郭仲荀らの兵に守られながら越州から明州、さらに南方へと移動を重ねた。この間、従官の去就をめぐる混乱、班直(近衛兵)の脱走・処罰、風雨による難行など、逃避行の困難が詳細に記録される。
- 十二月、皇帝は明州に至り、福建から集められた海船で温州・台州方面へと避難した。金軍は臨安・明州・越州などへ次々に迫り、地方官の逃亡や投降が相次いだ。韓世忠は鎮江から海路で敵の隙を窺う構えを取った。年が明けても皇帝の船団は南方の港を転々とし、正月には台州に至った。この間、隆祐太后一行も虔州から吉州、洪州へと追われ、護衛の軍が潰散して宗廟・府庫の財物が略奪される事態も生じた。李正民は二十二日、江州問安の使命を受けてこの記録を終えている。
王善、金に投降す
- 陳州を出た王善は張用・曹成らと分かれて宿・亳・濠州を転戦したが屯所を得られず廬州に入り、母の水死を機に投降を決意した。金は彼を軍中に拘留し部衆を解散させたため、以後淮東・淮西は王善の残党の跳梁に苦しめられた。
三日丁未 徳音(自省の詔)
- 皇帝は連年の遷幸で民が疲弊したことを詫び、和議への努力と倹約により民の負担を軽減する意向を示す徳音を発した。
采石の攻防と各地の陥落
- 和州は知軍州事李儔が金に投降した。一方、知太平州郭偉は采石で金軍の渡江を三日五戦にわたり撃退し続けたが、金軍は馬家渡へ迂回した。
- 隆祐太后・六宮が洪州を出た際、護衛の耿信友・楊惟忠の軍が潰乱し、宗廟・六宮の府庫が一夜にして略奪された。
- 韓世清は蘄州で賊将劉忠を大破し、劉忠が拘留していた女性(柔福帝姫を自称)を保護した(真偽は取り調べの上で認定された)。
- 知楚州趙立は淮陰で金軍と激戦の末に楚州入城を果たした。矢を両頬に受けながらも指揮を続けたと伝えられる。
十三日丁巳 杜充、長蘆崇福禅院を焼く
- 金軍の渡江拠点となることを恐れた杜充は、統制伏之彦に命じて長蘆崇福禅院(屋二千間に及ぶ大伽藍)を焼却させた。住持の道林は諦観をもってこれを受け入れ、経緯が詳しく記録されている。
- 濠州は孫逸の離任後、劉位が知州となった。建康府は陳邦光が知府となった(前任胡舜陟は退避を図り一時韓世忠に拘束されたが釈放された)。金軍は臨江軍を陥落させた。
二十一日乙丑 金、馬家渡から渡江、統制陳淬戦死
- 采石での渡江を郭偉に阻まれた金軍は馬家渡から渡江し、これを迎撃した統制陳淬は敗死した。防備の薄い南岸は容易に突破され、水軍統制邵青のみが小舟で奮戦した。「遺史」は建康に集めた諸軍が沿江の備えを怠っていたことと、都統制王燮が真っ先に逃走したことを批判的に記す。
二十三日丁卯 杜充、建康府を放棄し渡江北走、軍潰散
- 杜充は在任中厳しい処刑を重ねていたが、金軍渡江の報に自ら逃走を図ろうとして市中の反発を招いた。諸軍への恩賞支給後、軍は統制を失って潰散し、杜充自身も北へ逃れた。
- 続いて金軍は六安軍・吉州・袁州にも侵攻し、各地の知軍・知州が相次いで投降した。