三朝北盟會編炎興下帙 建炎三年 1129年

一日戊申 皇帝復位をめぐる上表と勅答の応酬

  • 張浚は、太母(太后)の若さと嗣君の幼さでは国難に対処できないとして、睿聖皇帝(上皇)の復位を求める上表を行った。呂頥浩も内侍専横の弊害を認めつつ、同様に復位を進言した。
  • 宰執一同も連名で復位を請う劄子を提出し、皇帝(上皇)は当初「和議のための譲位であり本意ではない」と辞退したが、太后の勅旨と重ねての上奏を受け、最終的に復位して万機を親裁することを承諾した。太后は隆祐皇太后の尊号を受けることとなった。

太后の撤簾

  • 皇帝復位後、太后は速やかな撤簾(垂簾聴政の終了)を望んだが皇帝は慰留し、数度のやり取りの末、四月四日をもって撤簾することが定められた。

六日癸丑 朱勝非罷免、呂頥浩の拝相

  • 朱勝非は尚書右僕射を罷免され観文殿大学士・知洪州となり、呂頥浩が尚書右僕射同中書門下平章事に任じられた。制詞は、事変に際し呂頥浩が勤王の軍を集めて忠義を貫いたことを称えた。

八日乙卯 大赦の詔

  • 皇帝は自らの不徳を省みつつ両宮(太上皇・淵聖皇帝)の安否を憂え、乱の平定と新政への刷新を誓う大赦の詔を発した。

湖州通判張燾の上疏

  • 張燾は、皇帝の号令・政事がなお人心を十分に得ていないことを至誠の不足に帰し、君子・小人の用捨、江防のための無謀な民兵徴発の弊、台諫の怠慢、巡幸に伴う民の疲弊などを指摘し、質素倹約の政治を求めた。

二十日丁卯 車駕、江寧府へ

  • 車駕は江寧府へ向けて出発した。

各地の動静

  • 潰兵劉文舜(もと済南の僧劉和尚配下)は濠州を脅かし、知府連南夫の懐柔で撤退した。潰兵薛慶は高郵軍を占拠した。
  • かつて黄潜善・汪伯彦の罪を弾劾して配流されていた邵成章が、忠直を惜しむ皇帝により召還された。邵成章は宦官でありながら童貫の罪を弾劾する等、権勢に阿らぬ人物として知られ、金軍に洪州で捕らえられても節を屈しなかったが、まもなく病没した。
  • 水賊羅成(楚州洪沢閘の車軍出身)は淮陰との地域対立を背景に船団で楚州一帯を荒らしたが、のちに邵青に併合された。