「維揚巡幸紀」が語る建炎二年末以来の経緯
- 建炎二年冬、鄆州・濮州が相継いで陥落して以降、金軍は山東を横行し、李成ら群盗も乱に乗じていた。黄潜善・汪伯彦は政務を専断しながら探索を怠り、賊の動静を把握できずにいた。李成討伐に出た劉光世は苦戦し、統制苗傅の奮戦で辛くも敗軍を免れたが、李成の禍根は絶えなかった。
- 泗州の警報が相次いだが、朝廷はこれを軽視した。金は李成の残党を偽装して油断を誘い、正月十三日には偽の泗州首級を持参して事態を欺いた。朝廷は動揺し、皇帝は南幸を望んだが黄潜善に留められた。
初一日~初三日 揚州陥落前夜の混乱
- 反乱を起こした閻瑾の誤報や金軍接近の報に揚州は大混乱に陥った。住民の脱出が相次ぎ、金銀の価格が急騰し、連夜火災が発生した。黄潜善・汪伯彦は「対処済み」と百官を安心させていたが、実際は無策であった。
- 三日、天長軍陥落の急報が届くと皇帝は甲冑のまま少数の供のみを連れて出立した。百官・軍民は先を争って城門に殺到し、圧死者が続出。揚州から瓜州にかけて渡江できなかった軍民の多くが溺死・虜掠の被害に遭い、財貨は江畔に散乱した。両府・侍従の多くが落命・離散し、大卿黄鄂ら要人が惨殺される様も記録される。
初四日~初七日 鎮江から平江への逃避行
- 皇帝一行は鎮江から丹陽・常州へと移動し、各地で軍兵による略奪・混乱が発生した。招安兵丁進の乱行を王淵が処断するなど、逃避行の中でも治安維持の努力が続けられた。平江府に至って行装がようやく整い、右丞朱勝非・礼部侍郎張浚が城内の鎮撫にあたった。
初七日~十五日 杭州到着と善後の詔
- 皇帝一行は呉江・秀州・崇徳を経て十三日に杭州へ到着し、州庁を行宮とした。到着した官吏は定員のごく一部にとどまり、行政は乱れた。十四日に恤民の詔、十五日に百姓の渡江支援・膳の削減・宮女の放出などの詔が相次いで出された。
二月三日壬子 江寧府への移駐計画
- 金軍の揚州撤退の報を受け、朝廷は江寧府(後の建康府)への移駐を四月上旬に予定する旨の指示を出した。吕頥浩が知樞密院事・知江寧府兼江南両浙経制使に任じられた。裴淵は靳賽と秦州で交戦し、双方議和して兵を退いた。
四日癸丑 御営都副統制苗傅・劉正彦の乱、皇帝譲位
- 苗傅・劉正彦が挙兵し、簽書樞密院事王淵を殺害、闕に迫って皇帝の譲位を強要した。皇太子が即位し元祐太后(隆祐太后)が垂簾聴政することとなった。詳細な経過は続く記事(0125以降)に記される。
五日甲寅~七日丙申 車駕、鎮江から平江への転進と誅罰
- 皇帝は鎮江府を発ち呂城鎮を経て平江府へ向かった。従軍していた丁進が略奪や無謀な反攻を企てたため、王淵はこれを磚橋で斬った(以後「斬丁橋」と呼ばれる)。金は揚州の掲示で西北の民に帰郷を許す旨を布告した。
- 常州では范瓊配下の兵が、将兵をからかった言葉を発端に暴発し、寿春府で乱を起こして知軍府事鄧紹密を殺害、城内を焼き払った。真州では靳賽の軍が金軍撤退後に再入城し、知州向子忞との軋轢から掠奪が横行し、住民との衝突で凄惨な報復(人肉を食らう行為)が記される。
- 七日、車駕は平江府に到着し、朱勝非を平江府秀州控扼使、張浚を副使とした。呂頥浩は同簽書樞密院事・江淮両浙経制使として江寧府に駐留することとなった。
八日丁巳 揚州民の遷徙を撫慰する詔と各地の動静
- 朝廷は揚州から避難した人々を慰撫する詔を発し、南遷のやむを得ない事情と再興への決意を述べた。泰州では知州曾班が金軍来襲に際し軍民の総意で投降したが、金軍撤退後もなお危機が続いた。青州では葛進が金軍に討たれ、滄州は知軍州事劉錫が撤退した。
- 九日戊午、滄州通判孔徳基が金に降った。
十一日庚申 車駕、秀州へ移り金国への使者を派遣
- 車駕は秀州へ移った。皇帝は劉伸ら応募兵を金国軍前への使者として派遣し、和議成立の暁には抜擢すると約束した。