七日乙未 太上皇帝の密書、張所の河北招撫、慈州陥落
- 燕山府に幽閉された太上皇帝(徽宗)が密使曹勲を通じて絹の肌着を送り、そこに「便可即真、来て父母を救え」との親書八字が縫い込まれていた。高宗はこれを群臣に示して涙し、宗廟に納めて後世に伝えることとなった。
- 張所が河北西路招撫使として大名府に司を置き、京畿の兵三千を衛とし、山寨の民兵を招撫して濬州・衛州・懐州・真定府・中山府方面の回復を図る計画が裁可され、緡銭百万を半年分の経費として賜った。
- 金軍が慈州を陥とした。知軍州事の張昱(元は罪を得て配流された地元吏人だったが民に推されて州事を代行していた)は、城壁のない慈州を支えきれず、金軍来襲時に民を率いて逃れた。
十三日辛丑 宗沢、京城留守に就任
- 範訥は消極的な勤王姿勢と軍紀の乱れを咎められ承宣使・淄州居住に降格。宗沢はかねて親征による二聖奪還を主張していたが黄潜善・汪伯彦に阻まれ、代わって京城留守に任じられ入京した。「林泉野史」は范訥の経歴(童貫の門客から出世し、靖康末に河北河東宣撫使として五万の兵を率いたが応天へ退いた事績)を記す。
- 元祐皇太后を揚州へ迎えるべしとの詔が下った。王燮・傅亮が陝府に司を置き、河中府・解州で金軍と対峙しつつ河東の山寨勢力と結んで失地回復を図る計画も裁可された。
鄧肅、偽楚に仕えた者の断罪基準を上奏
- 左正言鄧肅は、偽楚(張邦昌政権)に協力した官吏の罪を軽重に応じて格付けすべきと上奏し、王時雍・徐秉哲・呉幵・莫儔・李回ら執政級を最重、庶官から抜擢された胡思・李擢・盧襄・范宗尹ら、勧進文や赦書を起草した者、事務官として偽楚に奉仕した「十友」、邦昌の諱を避けて改名した者などを段階的に分類して具体的な処罰(遠地安置・団練副使降格など)を求め、多くがこれに沿って処断された。
十四日壬寅・十五日癸卯 巡狩の詔
- 李綱は、河北・河東の防備が徐々に整いつつある中で行幸の目的地が定まらないことが人心不安の原因だとして詔の発布を求めた。高宗は「元祐太后と六宮は東南へ送るが、自分は中原にとどまり将士を鍛え、金と戦う」との決意を示した。
- 正式に下された巡狩の詔は、二聖・宗族が連行された惨状への痛惜を述べつつ、古の巡狩に倣い近郊に留まって秋の金軍再侵に備え、皇太后・六宮を東南へ避難させる一方、自らは中原にとどまり将士とともに二聖の帰還を図る決意を表明した。
宋斉愈の処刑
- 「遺史」によれば、包囲下の皇城司での会議で、金の意向を受けた王時雍らが趙氏廃絶と異姓推戴の名簿を空欄のまま逡巡していたところ、右司員外郎の宋斉愈が自ら筆を執って「張邦昌」の三字を書き、これが擁立の直接の契機となったとされる。取り調べの末、赦令の対象外として斬に処された。「張浚行状」は、李綱が私怨により宋斉愈に腰斬の重罪を科そうとしたとし、張浚がその不当性を弾劾して李綱が罷免される一因になったと伝える。
十六日甲辰 隆祐太后の護衛、金軍の兵力配置
- 孟忠厚が徽猷閣待制として隆祐太后の南下を統括する任に就いた。
- 金は燕山・雲中・中京・上京・東京・平州・遼西・長春の八路から民兵を動員し、渤海・契丹系の諸将が河間・保州・永寧・濮州・冀州・真定・慶源・雄莫・磁相・泰源新城・嵐憲・平陽・慈隰・汾州・河東蘇村・解州安邑・絳州・澤潞・孟州など各地に分屯して両河の州郡を制圧しつつあった。両河の州郡は朝廷の統制を離れて各自で自衛するほかなく、金の各個撃破を許して次々と陥落した。