八日丙寅 士大夫の総括的な譴責、王宗濋の処分、傅雱の派遣
- 高宗は、靖康の変で節を守って死んだ士大夫がほとんどいなかったことを嘆く手詔を下し、目立って恥ずべき行為をした者のみを処罰し、武官・卒伍にはこれからの働きを期待して寛容とする方針を示した。
- 禁軍を率いて都城陥落時に真っ先に逃亡した王宗濋は散官安置に処された。洪芻・張蒐材が罷免され、胡思・王及之・余大均・周継文・陳冲も先次放罷とされた。
- 傅雱が金への通問使に任じられた。「遺史」は、これが李綱の推薦によるものだが、識者はこの人事に高宗の和議志向を早くも見抜いていたと評す。
- 河北・河東の忠義の士を募り、一方を保持し得た者や敵を破った者には節鉞を授ける旨が布告された。
宗澤、割地反対の奏劄
- 朝廷が河東・河西・陝の蒲州・解州の割譲を議したのに対し、宗沢は「これらは太祖・太宗が定めた天下であり、金の脅しに屈して割くのは東晋・西晋の分裂の轍を踏む」と痛烈に反対し、忠義の民を見捨てることになると論じた。
十二日庚午 謝克家・范宗尹の処分
- 両名は寵遇を受けながら国難の際に保身を図ったとして宮祠に落とされた。
十四日壬申 河北・河東への慰撫の手詔
- 高宗は、両路の守臣・忠義の軍民が金の攻撃に屈せず抵抗を続けていることを称え、この地を決して見捨てないと宣言し、功績のあった者には建炎二年に節鉞を授けると約束、税賦の自由な運用や官吏の登用も許した。あわせて銭鈔・薬品の支給、印造した紙幣の輸送なども命じられ、李綱「伝信録」はこれにより両路の民心が大いに安んじたと記す。
十七日乙亥 御史の処分、范瓊の登用、耿南仲の追加処分
- 胡舜陟・胡唐老・姚舜明・王候は、危機に際し和議に終始し諫言を怠ったとして各々二階級降格された。
- 范瓊は定武軍承宣使・御営使司同都統制に昇進し、京西で乱を起こした李孝忠の討伐に当たった。
- 独断で救駕義兵を興した叔向は処刑された。
- 馬忠は河北での敗戦の責を問われ降格。張所が河北路招撫使に任じられ、この頃岳飛が初めてその麾下に加わった。
- 耿南仲は和議を主導した罪を重ねて問われ、節度副使・南雄州安置となった。「林泉野記」は耿南仲・耿延禧父子の経歴(易学に通じた開封の出身、太子詹事として欽宗に易を教授、靖康期の和議路線、康王元帥府への合流、南京即位後の礼儀使就任など)を詳述する。
幕僚による中興記表の進呈
- 康王大元帥府の旧幕僚が、即位を寿ぐ「中興記」の表を進呈した。漢の光武帝や唐の粛宗の中興になぞらえ、康王の即位を寿ぐ頌辞であった。
二十日戊寅 執政の異動
- 汪伯彦が知枢密院事、黄潜善が門下侍郎を兼ねることとなった。
二十一日己卯 金将斡里雅布の死
- 金の斡里雅布(宗望)が病没した。高宗即位の報を受けて避暑の草地で尼堪(ニェンハン)を待つ間、打毬で暑気にあたり傷寒を発したことによるという。
二十五日癸未 呂好問の失脚
- 偽楚に協力したとの疑いが再燃し、呂好問は資政殿学士・知宣州に転出させられた。呂好問は「辨事偽楚奏劄」で、都城陥落の際に孫傅・張叔夜に説得されて留守司に残ったこと、密かに康王への使者を送り続けたこと、張邦昌に高宗擁立を勧めた経緯、元祐皇太后の聴政実現に尽力した経緯を詳細に弁明し、身の危険を冒して忠義を尽くしたにもかかわらず疑いを免れないことへの無念さを訴え、致仕を願い出た。