五月五日甲午 李綱の拝相、朱勝非の中書舎人任用、楊惟忠の昇進
- 資政殿大学士・開封府尹の李綱を正議大夫・尚書右僕射兼中書侍郎に任じる制が下された。制文は、宰相人事の重要性を説き、李綱の学識・才幹・忠節を称え、国勢立て直しの大任を託す内容であった。
- 朱勝非が中書舎人に任じられた。「翊戴記」は、靖康元年冬、金の再攻の際に朱勝非が右司員外郎として軍前往来の任にあたり、張邦昌の和議倡導に反対する上疏を行ったこと、東道副総管として応天府に赴任し寡兵で城を守り抜いた奮戦、金軍の使者を捕らえ元帥府に引き渡した機略、大元帥府に真っ先に登極を進言し南京行幸を促した功などを詳述する。
- 楊惟忠(西蕃出身、童貫配下から靖康期に高陽関路兵馬副総管)が殿前都指揮使・建武軍節度使に昇進した。元帥府が東平にあった頃から都統制として黄潜善ら諸将を統轄していた功による。
六日乙未 鴻慶宮参拝、河北への出兵命令
- 高宗は鴻慶宮に参拝し謝恩した。
- 馬忠を龍神衛四廂都指揮使、張換を通侍大夫・忻州観察使・河北制置使とし、両者の兵五千(号一万)ずつを河北へ派遣して金軍を追撃・牽制させる命が下された。制文は将士の労苦を称え、二聖奪還と辺境防衛の重責を託す内容であった。
七日丙申 薛広・張瓊の出兵、陝西・西京への指示
- 薛広・張瓊にそれぞれ兵三千(号六千)を与え、内黄県・開徳府方面から渡河させ、河北の山寨義兵と合流して磁州・相州などの回復を図らせた。
- 陝西諸路の帥臣に兵馬招集・糧秣備蓄を命じ、西京では翟興に義兵を結集させ祖宗陵寝の守護に当たらせた。
八日丁酉 呂好問、尚書右丞に任じる
- 呂好問を尚書右丞とする制が下された。制文は、靖康の政変を通じて片言で局面を動かした功と、忠誠・老練さを称える内容。
- 秦湛「回天録」は、宣和末の金の背盟以来、种師道ら宿将が及び腰であったこと、呂好問が兵部尚書として諫官の立場から防河・太行山防衛・勤王兵の再編など具体策を上奏したがことごとく容れられず、京師陥落に至った経緯を詳述する。さらに、高宗が敵営に赴いた後、呂好問が城内の撫慰にあたり、金が趙氏の存続を認めない意向を示した際には宰執らと激しく議論し、雪夜に密使を放って大元帥府へ蠟書を送り高宗の即位を促した働き、張邦昌の僭号中も密かに宋朝の年号を用い続け神主を隠して保護した忠節、邦昌に対して金軍の駐留や年号変更を思いとどまらせた進言などを克明に記す。
十日己亥 京城撫諭使の派遣、勤王将士への恩賞、揚州駐蹕をめぐる建言
- 路允迪を京城撫諭使、耿延禧を副使として派遣し、金軍退去後の京師の民心安定にあたらせた。
- 大元帥府の幕僚・五軍将佐で扈従した将士に等級に応じた恩賞を与えることとした。
- かねて知揚州の許份が上申していた、江淮を控える要衝の揚州に行在を置くべきとの建言(祖宗以来の国勢、京師陥落後の情勢、南京・洛陽近辺の不安、揚州の地の利などを論じたもの)を高宗は謙譲の辞をもって一旦却下したが、その内容が記録される。
十四日癸卯 天申節祝賀の停止、姚平仲の召還
- 二聖の北狩と万民の窮乏を理由に、高宗自身の誕生日である天申節の祝賀儀礼を停止する詔が下された。
- 姚平仲(靖康期に金軍への夜襲策で知られたが失敗し逃亡していた将)を吉州団練使に復し、行在への出頭を命じる制が下された。